2011年10月14日金曜日

外へ押し出し、島へ逃げこむ

 いずれにしても、ある民族が本質的に「好戦的」かどうか、というような問題は、論じても詮(せん)のないことであろう。──日本民族について、ただひとつはっきりいえることは、その千数百年の歴史のあいだに、大規模な「対外戦争」を闘った国民的経験が、大陸部アジア、オリエント、ヨーロッパの諸民族くらべてきわめてすくない。ということだろう。しかも、その戦争たるや、全部が全部、日本から「外へ」押しだすことによってはじまり、この四つの島へ逃げこむことによって終る。国土が、異民族、外国の軍隊の鉄騎によって蹂躪(じゅうりん)され、この国土内において、熾烈(しれつ)な「対外戦争」が闘われたことは一度もない。
 この点は、日本という国のことを考えるうえでかなり決定的なことである。──ただでさえ数すくない対外戦争を、日本国民の大部分は、直接「目撃」したり「体験」したりすることなく、ただ「後方」として経験してきたのである。
国内戦争のばあいはどうかというと、これも江戸二百五十年のあいだ、島原の乱や鳥羽伏見、上野の闘い、会津戦争のように、ごく局地的に闘われるだけで、西南の役を最後に、それもなくなってしまった。それ以前はどうかというと、これも前に述べたように、源平の争乱、南北朝、応仁の乱、戦国末以外、たいしたことはない。
 それも、戦争による農村部のうけた破壊、被害は、記録もあまりまとまっていないようだが、頼朝の奥州藤原攻め、信長の一向一揆攻め程度で、ドイツ農民戦争のような大きな荒廃ぶりをもたらしたものは見当たらない。──もっとも、これは私が寡聞(かぶん)であるためかもしれないが、米作地帯であるためか、戦争のあとの恢復も早いようである。
 日本国内戦では、農村部よりも、都市が大きな被害をうけているようである。応仁の乱で京都が焼野原になったり、大坂夏の陣で、城の廓内(かくない)が灰燼(かいじん)に帰したり、古いところでは奥州平泉や、元寇のときの博多の街が焼かれたりしている。──もっとも、これも私個人の「印象」だけでは、はっきり都市、農村の被害の比較をやったわけではない。
 いすれにしても、日本の社会は、関ヶ原の合戦以後、国内的にも「大戦争」を経験していないのである。──そして「天下分け目の関ヶ原」といったところで、闘われた場所もせまければ、合戦も朝から日没までですむ、というささやかなものだった。そのあとの「大坂の役」は、もうすでに局地戦争である。そういえば、源平の乱以来、南北朝、応仁、戦国、織豊期まで、近畿はじつにたびたび、「国内戦」の戦火をこうむっている。
 そして、徳川氏ののりこみ以後、実質的に日本の「首都」になった江戸は、ついに江戸二百五十年──そしてむろんそれにつづく近代百年のあいだも──上野彰義(しょうぎ)隊の闘いがそう一廓で闘われただけで、勝・西郷の話し合いのおかげで、ついに一度も、「戦場」になった経験を持たずにすんでしまった。もっとも、江戸は「戦火」のかわりに、たびたび大火、震災、洪水におそわれた。人為的な「戦争」のかわりに、「天災」が、この地をおびやかしつづけたのである。(本文より) 

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