2011年10月27日木曜日

植物文化と動物文化

 「衣食住」がみんなそのうえにのっている、という点では、稲作のばあいも遊牧のばあいもかわらないようにみえる。──しかし、両者のあいだにには、じつに決定的な差がある。それは一方がその生活をかけているものが「植物」であり、他方が「動物」、それも知能も、感情も、行動力も、基本的にはヒトとあまりかわらない「高等哺乳類」である、ということである。──早い話が、イネはどんなに大きくなっても、何かの拍子に「主人」にむかってかみついたり反抗したりすることはない。イネが人間になついたり、ちいさな苗が、母親からひきはなされて悲しそうに鳴く、などということはない。切ってもあたたかい血が流れるわけはないのである。
 だが、「家畜」のばあいはちがう。──いかにおとなしくても、それは、人間とたいへんちかい「知能」も「感情」も「意志」も持った動物である。集団ともなれば、ときに「パニック」も起こす(パニックというのはもともと家畜の群れに、森の神、のち牧羊神などとよばれたパンの神がとりついて、暴走する状態をいう)。こういう連中を、生活のために大量に「統率」するためには、まず人間のほうが、たえず気をくばり、気持ちをしかっり持って、また反抗しようとするものに「対決」しなければならない。──そのためには、幼いころから家畜の「性質」に慣れ、「主人」として、群れの「スーパー・リーダー」としてその統御の訓練をうけなければならない。
 こんにちでも、アジア遊牧社会では、男の子が十四、五になると、ひとりで二百頭ぐらいの羊の群れをあつかうが、それはまことに颯爽(さっそう)としたものである。「動物集団」をコントロールする、独自のシステム・ダイナミックスや、グループ・ダイナミックスは、幼いときからたたきこまれている。家畜に対しては、一種の「交歓」があるほど深い愛情を持ちながら、他方では、「反抗」するものには情容赦(なさけようしゃ)ないきびしい罰をくわえ、「脱落」しそうなものは苔をふるって追いあげる。──日本においては人民が「民草」などと表象されるのに対し、オリエントでは、たとえば「迷える子羊」や「よき羊飼」といった表象が使われるのは、むべなるかな、と思わせる。(本文より)

フォロワー