2011年10月20日木曜日

「民草」と「小羊」

 日本という国が、千数百年の歴史のあいだに「対外戦争」というものをごくわずかしか経験せず、しかもそのほとんどが、日本の海外へ「押し出して」ゆくことによってはじまり、四つの島へ「逃げかえる」ことによって終わった、ということは、前に述べた。──したがって、日本国民の大部分は、対外戦争に関して「後方」としての経験しか持たなかった、ということも・・・・・・。
 このことが、どういう意味を持っているというと、日本国民は、その性格のレベルにおいて、戦争を通じての「異質文化」との強制的接触したことがなかった、ということである。
 これはまことに決定的なことであって、実をいうと、このために、日本人一般は、「異質」の「文化」というものが──そもそも「文化」というものが、なんとおりにも、異なったかたちでありうるということが、ほとんど理解できないのではないか、という気がする。
 しかし、日本以外の地域──とりわけ、広大な地つづきの大陸上の各地域ではそうではなかった。ここでは、まさにさまざまな「異質の文化」が、人類史の文明時代以後、さまざまな規模で対立し、衝突し、ときには生死をかけた闘いをやり、一方が他方を根こそぎ絶滅したり、また征服、支配したりすることがくりかえされた。
 おことわりしておくが、ここでいう「文化」とは、「人間が後天的に身につける社会的な生活、行動様式の総体」という意味で、「文化活動」や「文化人」「文化ホール」といったかたちで使われているあの「文化」ではない(この点については、のちにもうすこしくわしく述べるつもりである)。
 ユーラシア大陸で、とりわけはげしい衝突をくりかえしたのは、「遊牧系文化」と「農耕系文化」だった──こういうひどく簡単にきこえるが、実際はこの両者の関係は複雑で入りくんでおり、お互いに吸収したり、吸収されたりするのだが、もっとも顕著な現象としては、農業文化を基盤とする「国家」や「文化圏」と、遊牧系文化を基盤とする「民族・社会集団」との衝突というかたちをとる。(本文より)

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