古代という怪しげな文字に踊らされて、城之越遺跡を訪れてみた(音・連れてみた)。
『復原バンザイ城之越遺跡』上野市教育委員会(H10.3)より、
遺跡全体での遺構の変遷について概説する。まず古墳時代前期後半(四世紀後半)頃、竪穴住居が広く散在するとともに遺跡の北半部中央に大溝が素掘りの形で構築される。続いて大溝上流部に護岸の貼石や岬部分の立石、湧水部での石組が施される。この時期には、大溝以外には顕著な遺構がなく、大溝とそれに接続する広場状の空間は独立した祭祀の場として存在する。次に五世紀に入ると、大溝での祭祀は継続するものの大溝自体は埋没し始め、周囲に竪穴住居や掘立柱建物が造られてゆく。古墳時代後期(六世紀)には、大溝の立石や貼石部にも埋没し祭祀の存在もわからなくなる。周囲では倉庫状建物を含む掘立柱建物が多くなってくる。続いて奈良時代に入ると大溝は完全に埋没し、遺跡全体に掘立柱建物が建てられ、竪穴住居も造られる。大溝の上部埋土に「建」の墨書をもつ土器が入る。平安時代から中世にかけては建物が疎らになる。(国指定文化財等データベースより一部抜粋)