2011年11月24日木曜日

地球文明人へ

 「文明」も、もともとは、どこかの富と情報をもとにした「神聖なる権威」を広域にみとめさせ、あるいは地域が積極的に「参加」することにより、そのなかに「異質文化の共存と分業的補完=交易」を、衝突を避けるように調整しながら「世界人としての文明人」をつくりだしてゆこうとするものだった。──商業都市の宗教だったイスラムも、元来はひじょうにあっさりと明快なもので、アラーを唯一神とみとめ、マホメットを予言者とみとめ、コーランをあがめ、礼拝をふくむいくつかの戒律をまもれば「同胞」とみなした。別の信仰を固執してもべつに抹殺はせず、「高級な話や取り引き」の仲間には入れない、というだけのことだったのである。
 こういう「文明」も、近世から近代にかけて、各地域において「特異性」を持ち、「排他性」を持ったものになってゆく。──産業革命以後の交通・輸送・通信・生産の大発展により、「諸大陸・諸文明」が、「地球」というステージのうえで、お互いに顔をつきあわせるようになったのは、じつにここ二世紀、否半世紀ほどのことである。
 「地球文明」というものを構想するのは、こういった「前・地球時代(プレ・グローバル・エイジ)」における「文化と文明」の、長い、奇妙な、そしてじつにしばしば悲惨な衝突と破壊、殺し合いをくりかえしてきた──それでいながらまだ完全に開明されていない──歴史をよく見きわめ、その陥りやすい「恐怖からくる熱狂」「狂信」「誤解からくる非惨」の罠(わな)を、骨の髄までよくたたきこんだうえでのことでなければなるまい。
 「人類社会」は、たやすく「統合」できるものではないであろう。「諸文明間の致命的闘争」の可能性もまだのこされており、性急な「使命感」にかられた統合の強制は、かえって「地域地域の魂=文化」の圧殺や、流血の抵抗をよぶであろう。にもかかわらず、「異質文化・異質文明」が、相互に大衝突や殺し合いをせずに「共存」しうるような、「調整」の可能性を増大させるためには、過去の大文明のすべてをこえた、新しい「地球文明」を構想せざるをえないだろう。
 さしあたって、希望は、諸文化、諸文明間の「致命的衝突」を回避するよう調整の努力をつづけつつ、諸文化・諸文明が、相互にその「異質性」を認識し、そうすることによって、じょじょに──ヒステリカルな拒絶反応や、アイデンティティ・クライシスや、嫉妬に陥ることのないように──お互いと自己を「理解」するような、おだやかな文化交流を持続させ、さらに新しい世代へむけて、まったく新しい「地球文明人」をつくりだすことを目ざすよりしかたがないと思うのである。(本文より)

対立と共存

 こうみてくると「異質文化」「異質文明」どちらでも、その接触のときには、悲惨なことばかり起こるようにみえる。──これでは、「文化交流」などやらないほうがいいかもしれない。
 しかし、「異質文化の接触」が、つねに衝突と破壊の悲劇ばかりをもたらしたわけではない。ゆるやかな、しかもよく制御された「幸運な」接触は、相互に刺戟と利益をもたらした。人間の「叡智」によって、「異質文化」が相互に尊重し補完しあって、「より高い秩序」をつくるように「共存」する道をさがしもとめ、それに成功してきた例も無数にある。
 たとえば、先ほどあげた遊牧文化と農業文化の接触でも、吸収合併によって強力な「軍事大帝国」をつくるばあいもあったが、よりおだやかな「共存」関係も成立しえた。──素朴なものでは、「刈り跡遊牧」がある。これはイランやトルコ、西北アフリカなどで今でもあるが、秋になって、北方から移動してくる遊牧民に、収穫のすんだ刈りあとの農地に家畜を入れさせてやるやり方である。作物の切り株や落ち穂などを食べて家畜は冬をすごし、家畜は良質の窒素肥料を耕地におとして地力を恢復させる。
 また、中央アジアのオアシス都市では、都市の集積を定期的に掠奪(りゃくだつ)してくる遊牧民とのあいだに、一種の奇妙な妥協が成立し、都市民はなにがしかの財貨をわたすことによって、他の遊牧民の襲撃からの「防衛」え委ね、遊牧民はみずからを「養蜂業者」、都市を「蜂の巣」、都市民を「蜜蜂」にたとえて、「蜜」を定期的にとるには、「蜂の巣」を破壊し、蜂を殺してしまってはならないし、「蜜蜂の敵」たる熊蜂からまもってやらねばならない、と考えていた。(本文より)

異質文化強制の結末

 清朝が、明をほろぼして中国を征服したとき、典型的な「文化衝突」があった。──漢民族は、もともとひじょうに「髪」というものを大切に考えていた。こんにちでも、漢民族と遠い祖先を同じくするといわれるタイ族がそうであるが、髪というものには、特別の神秘な霊力がやどっていて、親、長上といえどもみだりに触れられない、という一種の「信仰」がある。中国には、いうまでもなく、中国固有の思想、文化、風俗を「中華」として、これこそ「文明」であり、「人間の人間たりうる道」とする考え方が根づよくあった。したがって髪をたかく結い、寛衣をまとう漢民族の伝統を是とし、筒袖、ズボン、頭を剃(そ)って髪を弁髪にする遊牧民の服装を「胡俗」とよび、野蛮人の風俗として卑(いや)しめてきた。
 ところが、その遊牧民の清が支配者になったとき、逆に「漢民族は支配者の風をならえ」と強制され、頭を剃り、弁髪にしないと断首するという令が発せられた。「髪をとどむる者は頭をとどめず。頭をとどむる者は髪をとどめず」というわけである。漢人のあいだにはたいへんな抵抗感があったらしいが、「見せしめ」のため、数十万の漢人が実際に首を切られて、やっと剃頭(ていとう)弁髪の風が全土に浸透したという。 
 たかが「髪型」ひとつでこれほどの抵抗があり、何十万人もの犠牲が出るのである。──明治のはじめ「ざん切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする。ちょんまげ頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする」などと、のんきな歌を歌って、われもわれもと「ニュー・ファッション」としてざんぎり頭にした日本では、およそ想像もつかない。──たかが髪型、服装、と軽く考えるが、これもあるばあいには、深く民族の深層意識に根ざした「文化」であり、「異質文化」が強権をもってこれを弾圧破壊したり変更したりしようとすると、それこそ「命がけの抵抗」をよび起こすことがある。
「信仰」の問題がそうであるし、また「言語」の問題がそうである。ひとつの系統のちがう言語が「国家的統一」のため、使用禁止になり、「生きた言葉」としては、葬り去られようとする例が世界には現在でもいくつかあり──たとえばバスク語など──これがはげしい抵抗や相互のテロリズムをひき起こしたりしている例もある。
「宗教」や「信仰」の問題は──もともとは、「人間の普遍性」や、「個人の絶対的尊厳」を説くものであっても──二つの方向で、数多くの「非惨」をまき起こした。ひとつは、その社会集団のなかで完全に「異質少数者」であるばあい、その「信仰」を強権をもってすてさせようとし、すてないばあいは信者を「抹殺」しようとしたケースである。もうひとつは逆に、宗教が強大な勢力と結んだり、それじたいが強力な集団を形成したりして、周辺部にその信仰を押しつけ、「伝道」のかたちで強制し、信じないものは武力でもって「抹殺」しようとしたケースである。
 ──前者は、日本のキリシタン弾圧の例で私たちにもよく知られているが、後者は、「大文明」のなかに醸成されたり、吸収されたりした「大宗教」のばあいに多く、ときには「文明」そのものが、そういう性格をもっていた。イスラム教の「聖戦(ジハード)」がそうであり、キリスト教の「十字軍」がそうだった。また、「大航海時代」のキリスト教の「伝道」は、カトリックの本山において「人間」と認定されなかった──認定すると「宣教師」を派遣せねばならず、当時は法王庁に金がなかったので──アメリカ原住民は、「野獣」あつかいで大量虐殺され、それを知ってあわてて法王庁が「人間」と認定するありさまだった。「異質文化」を強制し、その土地にあった「生えぬき文化」のかなりな部分を「異教」「邪教」「野蛮」として破壊した伝道活動は、同時に新しい「伝染病」ももちこみ、新大陸では五十年間に原住民人口を三十分の一にへらし、ポリネシアでも人口を三分の一にしてしまった。(本文より)

モンゴルの破壊

 モンゴル軍の破壊と殺戮は、各地にかなりのこっているが、十三世紀当時のユーラシア大陸の東西で、すくなくとも千万人は殺しているだろう。──シルク・ロード沿いの都市は、はるか「未知の敵地」の奥深く侵入してゆく途上で、「後方の叛乱」が不安なために「住民みな殺し」にあった例が多い。ニシャプールは、現在はアフガニスタン北方にある都市であるが、ここでは三十万の住民は赤ん坊から老人まで、犬、猫、小鳥までことごとく首を切られてピラミッドにつみあげられたといわれている。──占領が終わって、「移動」するとき、また「退却」するときに、「後方撹乱(かくらん)」のおそれがないように、なんの罪もない住民を大量虐殺する例は、現在でもよくあることである。 
 「作戦上」そういった虐殺をやるのならまだわかるが、まさに「文化的大虐殺」が行なわれたり、行なわれようとしたりする例が、やはりこの時期に起こった。──モンゴルの軍隊が、西方をうち、ついで中国本土におそいかかって、当時北方から侵入して華北をおさえていた女真族の金をほろぼしたとき、ジンギス汗の庶子であるジュチは、華北にいる数千万人の漢民族農民を「みな殺し」にして、中原をからっぽにし、自分たちで盛大に羊を飼おう、と何度も提案した。──ジュチは、「農業」などというものは、「ちゃんとした人間のやることではない」と考えていたのであり、したがって農民をみな殺しにすることになんの抵抗も感じていなかった。
 幸いにして、この計画は、カラキタイ(後遼ともいう)の宰相で、ジンギス汗の知恵袋のひとりだった耶律楚材(やりつそざい)の必死の諫言(かんげん)で実行にうつされなかったが、遊牧民が、「農業」を憎み、きらい、軽蔑したことは、歴史的に根深いものがある。先ほどあげたサラセンでも、北アフリカへなだれこんだとき、ベドウィンはローマ時代の都市、耕地、灌漑施設を徹底的に破壊し、羊とラクダを飼う土地にかえた。その後、気候の乾燥化が進んだせいもあるが、現在でもこの地帯は、ローマ時代ほどの農業生産もあげられない。
 また、ジンギス汗の時代より一世紀のちに、サマルカンドに興った、自称ジンギス汗の子孫のチムールは、イラン方面の農業地帯を徹底的に破壊した。──都市を見おろす崖の上に1万騎をならべて、「一騎が二つずつ首をとってこい」と厳命した話も有名だが、都市、居住区、果樹園、農場、灌漑施設の破壊ぶりはものすごく、十五世紀にそのあとを見たアラブの歴史家をして、「どんなに戦争で都市が破壊されても、十年たてば旧状に復するものだが、この破壊ぶりは、たとえ最後の審判の日が来ても、昔の十分の一の人口にも回復していないだろう」と嘆ぜしめるほどだった。──堤防破壊によって、乾燥地帯では耕地が砂漠にかえり、多雨地帯では昔の低湿地にかえることを、農民はもっとも恐れた。だが、広大な「天地の間」に水草を追って自由に移動する遊牧民は、逆に、農民のように辛抱づよく労働力を投下して耕地化し、「自分たちの土地」として囲いこみ、遊牧家畜の侵入をこばむやり方憎んだ。
 ──乾燥した麦作地帯から、乾燥したステップ地帯へと連続的につらなる中央アジア地域や華北地域で、両者の「生産形態」の相違からくる「文化衝突」は何度も起こったろう。この地域では、気候の変化や「新技術」の出現が、両者の「境界線」を何度も移動させたろう。北方の寒冷化が進むと、遊牧圏の南限は南下せざるをえない。一方、温暖化が進むと、農業境界線は北上する。また、農業地帯では灌漑施設が進み、農具・品種の改良が進んだり、「農業生活文化」が辺境に浸透したり、「植民」が行なわれたりして、ボーダー・ラインが、昔の「遊牧民テリトリイ」の奥深く進出すると、ここに衝突が起こる。柵をつくって遊牧民を防ぎ、相手はそれをぶちこわして侵入し──そのくりかえしの果てに、「柵」が巨大化したものが、「万里の長城」であろう。
 あるばあいには、「衝突」が、一方による他方の「征服」、あるいは「吸収」が起こり、ひとつの「複合文化」がかえって「大帝国」を生みだすこともある。遊牧民は、前に述べたように、「生活者即戦士」であるから、騎馬戦闘時代に入ると、たびたび「農業文明」をうち負かし、「征服王朝」としてそのうえにのかったが、農業文明圏の「ゆたかさ」「知恵と技術の蓄積」に影響され、「支配階級」としての少数支配はつづけながら、「生活様式」については遊牧民のそれをはられ、征服したものにかえって「吸収」されてしまうばあいが多い。 
 ──中国を征服したモンゴル族の首長、フビライ汗が、他の西方の汗たちに、猛烈に非難されたのは、彼が「中国皇帝化」し、「尚武」の遊牧民魂、モンゴル魂を忘れて堕落した、と思われたからだった。また、のち、明をうちたおして漢民族のうえに二百数十年君臨した、満州の騎馬遊牧民女真族の清は、末期には「清朝貴族」は依然支配階級であったものの、完全に「中国化」していた。モンゴル侵寇時代に一翼を担ったトルコ族も、オスマン・トルコ大帝国をたててから、まったく昔のペルシア帝国のような官僚・神権国家に変貌していった。(本文より)

2011年11月17日木曜日

異なる戦争文化の悲劇

 ところが、広大なユーラシア大陸では、遊牧系、農業系の異なる「文化」、異なる「戦争形態」を持つ社会が大規模な衝突をくりかえしたことが最近なで何度もあった。──そのもっとも顕著な例が十三世紀にアジア北方に興って、またたく間に旧大陸全土を征服したモンゴル族と、西アジア、東アジアの、はるか古代からつづいた「農業文明圏」との衝突である。
 サマルカンド、ニシャプール、バーミアンと、シルク・ロード沿いに栄えた都市を次々に破壊し、ある都市では、八万、三十万もの住民すべてをみんな殺しにしながら、モンゴルの軍隊は、ついに旧サラセン帝国の版図に「宗主権」を持つ、アッパーズ朝カリフの支配するイスラム圏の中心バグダードにせまって、これを包囲する。長い包囲戦もバグダードはよくもちこたえたが、城中からの裏切りよって、秘密の地下上水道の位置をモンゴル軍が知り、これが破壊されることによって、ついにバグダード側は「降服」する。──このとき、バグダードのカリフは、莫大な金銀宝石を「賠償」としてモンゴル軍にさし出すことによって「講和」をはかろうとした。
 これに対してモンゴル軍の司令官は、その賠償とともに、カリフと皇太子がモンゴル軍の幕舎にくることを要求した。「講和」のための会見と思って出かけていったカリフと皇太子は、その場で殺され、それを合図に大殺戮(さつりく)がはじまった。──一週間で二百万人が殺された、とある記録はつたえる。
 ここに「戦争文化」の異なる集団の衝突による悲劇がある。──七世紀に興るサラセン帝国は、有名な聖戦(ジハード)をやって中東から北アフリカへかけての広大な地域を「版図」におさめるが、そのやり方をみると、かならずしも「欧州十字軍」のフィルターをとおしてつたえられたような、「残虐」なものではなかった。
 前にも述べたように、砂漠の「遊牧民」ベドウィンは、この闘いの一翼を担うが、主体はあくまで、オアシス交易都市の「商業民」だった。そして、征服したのは、メソポタミアからペルシア、そして西インドにまたがる世界最古の「農業文明圏」なのである。この地域の戦闘で、なるほどたくさんの人間が殺され、捕虜が奴隷にされたり殺されたりしたが、基本的には、都市なり地域が、征服者の「権威」をみとめ、「賠償」や「貢物(みつぎもの)」をおさめれば、それで戦争は終結する。アッパース朝最期のカリフも、この地域のやり方で、「解決」しようとしたのである。
 ところが、遊牧民の伝統的「戦争」は、もし「全面衝突」の結果、勝敗がはっきりしたら、敗者はリーダーを中心にして、とにかく逃げられるだけ逃げなければならない。むろん、勝者は追撃戦にうつるが、追って追って、あまり「未知の土地」の奥深く入ると、ひとつには兵站(へいたん)線がのびすぎて、もうひとつには「後方」が不安になって追撃のスピードがゆるむ。すると逃亡側が若干の「反撃」にうつって、ここで双方の「停止線」がきまる。──つかまれば、同じ遊牧系なら、「人間家畜」型奴隷になるか、みな殺しされるか、とにかく生殺与奪(せいさつよだつ)は勝者の任意である。むろん、敗者の家畜は当然の「戦利品」になる。「賠償」とちがって、生命や国家の「代価」にはならない。だから、こときカリフは、万難を排して囲みを破って「逃げる」べきだった。
 この話は、私に「行動学(エソロジィ)という、動物行動科学のあたらしい一分野をひらいてノーベル賞をもらった、コンラート・ローレンツという動物行動学者のあげている面白い例を思い出させる。──ある動物園で、七面鳥の檻(おり)の修理のため、七面鳥を、種類としてよく似ている孔雀(くじゃく)の檻にうつした。翌朝見ると、七面鳥は首をのばして死に、そのずたずたになった死顔にオスの孔雀がなおもつかみかかっている。奇妙に思って、もう一度別の七面鳥を檻に入れてみると、次のようなことがわかって。七面鳥は、「よその鳥のなわばり」に入っておどおどしている。孔雀は「マイホームへの侵入者」に居丈高(いたけだか)に攻撃をしかける。そして七面鳥は孔雀の攻撃をうけて、「降参」の姿勢をとるのだが、ここに「行動パターン」、あえていうならば「文化」の悲劇的なくいちがいがあった。
 七面鳥は同士の闘争のばあい、「負け鳥」は「降参」の意志表示に、相手の前の地面に首を長々とさしのべる。七面鳥同士の争いなら、「降伏」の意志は相手にもつたわり、攻撃側に「抑制機構」が働き出し、攻撃がやむ。──というより、「勝者」が「それ以上の攻撃ができなくなる」のである。これによって、七面鳥の「社会」では、「順位」はきまるが、「殺し合い」はさけられるのである。よころが──皮肉なことに、七面鳥「文化」では、「降伏」のサインである相手の前の地面に首をさし出す、という姿勢が、孔雀の「文化」では、「挑戦」のサインだったのである。 
 こうして、あわれな七面鳥が、攻撃をうけてくりかえし「降伏」のしるしをとるたびに、孔雀のほうはまたもや「挑戦」をうけたと思って、死んでからまで攻撃をつづけたのである。(本文より)

2011年11月12日土曜日

ダニとモニ

 文化の「差」は、何も生産形態だけで生ずるわけではない。細かくみてゆくと、同じ農業社会でも、無数のバリエーションが見出される──たとえば、地中海から中東へかけての小麦地帯と、インド東部から東南アジア、そして日本へかけての稲作地帯とでは、同じ農業基盤の社会といっても、かなり「文化」の様相がちがう。また、まったく同じ作物をつくり、同じような生活レベルであっても、かなり「文化」の様相がちがう。また、まったく同じ作物をつくり、同じような生活レベルであっても、行動様式がまったくちがう、といった例もみいだされる。
 ニューギニアの高知、ケマプー河の上流に、ダニ族とモニ族という、きわめて原始的な種族が住んでいる。その社会を観察した人類学者の石毛直道氏の話によると、この二つの種族は、どちらもサツマイモ栽培とブタ飼養が生活の基盤であり、どちらも父系制で、嫁取り婚であり、一夫多妻で、どちらも男は開墾耕作をやり、女は栽培収穫をやる、という点ではまったく同じである。──だが、両者の「戦争」のやり方はまったくちがう。モニ族は、同じモニ族の集団同士で戦争をやるとき、双方の戦闘集団が、一定の間隔をおいた「前線」をつくって対峙し、矢を射かけあう。ひとりあたり十本ぐらいしか矢がないから、すぐなくなるので、その両集団の前線のあいだにおちた矢を、弓を射かけている下でそれぞれの集団の女たちが拾いあう。そして通常どちらかのなかに、怪我人や死人が出たら、それで戦闘はストップする。
 ところがダニ族のほうは、戦闘に弓矢だけでなく槍(やり)を使い、敵対集団の居住地にこっそり夜襲をかけ、男たちを「みな殺し」にし、家屋に火をつけ、女たちをさらってくる、というのだ。相手方も、生きのこりが友好集団に援軍を依頼し、復讐の「殲滅(せんめつ)戦」をしかけてくる。──地域もまったくかさなりあって住んでおり、生活基盤も、社会の構成要素もほとんど同じなのに、どうしてこんな「戦争文化」に大きなちがいができたのかよくわからない。
 ただひとつ、社会形態のなかで、ダニとモニとの「戦争」のちがいを生みだす原因になっているのではないか、と思われるのは、その「家族形態」のちがいである。ダニもモニも、父系制、一夫多妻である点では同じであるが、モニ族のばあいは、成年男子と妻子が、同じ家のなかに住む(ただ、奇妙なことに、家のなかが「男の部屋」
「女の部屋」にわけられていて、夜になると男は男の部屋にひっこみ、女は女の部屋にブタや乳呑み子といっしょに寝て、あいだの扉に鍵をかけてしまう。セックスは、昼間、屋外で行なわれる)。そして、男が開墾し、女が植え、収穫するという点ではダニ族と同じだが、男たちは、自分の畠を任意に耕すだけで、明確な「集団労働」はしない。
 これに対してダニ族のほうは、男は十歳以上になると、すべて「男の家」で男はばかりの集団生活をする。「男の家」のまわりにたくさんの「女子供の家」があり、ひとつの家屋のなかに二組の母と子が住む(かならずしも、ひとりの男の二人の妻というわけではないらしい)。
 男の労働である開墾も、完全な「集団労働」でやり、畠は、女たちが個人個人で持ち分けをきめて管理する。同じ「男の家」に住むのは、同じ「血族」の男たちであり、嫁も一定の血筋からもらう。移動するときも、「男の家」の全員が、「女子供」をひきつれていっせいに移動する。──これに対して、モニ族のばあい、子供が一人前になると、両親からはなれた所を開墾し、家をたてて住むから、モニ族の社会は、家と家とが一キロぐらいはなれてちらばっている。
 この「男と女の住み方」のちがいが、ダニ、モニ両家の「戦争形態」のちがいの原因になっているかどうかは、まだ証明されたわけではない。しかし、いずれにしても、これだけ共通の基礎文化を持ち、居住地区も一部かさなりあって住んでいる二つの種族に、こんなに大きなちがいがあるのである。──ただ、この二つの種族にとって幸いなことに、戦争のやり方のちがう種族が衝突することはない。ダニ系はダニ系同士、モニ系はモニ系同士しか戦争をやらない。(本文より)

皆兵社会

 この基本システムを、遊牧民のそれとくらべてみると、そのちがいは歴然である。──遊牧社会では、移動性が高いためか、まずこういった「超自然的神権者」が生まれない。「天」は認めるが、その下で人間はすべて基本的に平等である。部族のリーダーは、平等の権利をもつ成員の「選挙」によってきめられ、その選出基準は「実力」「能力」である。移動範囲は広範だが、広域情報を集中管理する「固定的センター」は生みださず──したがって「都市」を生みださず──「技術革新」は、たちまち集団のなかにひろがり、だれがその「権威」を独占するわけでもない。多階層社会は形成せず、基本的には「人間」と「家畜」の二層しかない。したがって「人間」の資格のないものは「家畜」と見なされる。
 軍事になると、そのちがいはいっそうあざやかになる。前に述べたように、家畜の「天敵」は肉食獣や人間であるため、自己の「財産防衛」には、つねに自分の「武装」で闘わねばならない。馬に乗れば、もうそのまま「騎士」である。一方では、家畜「集団」をドライヴし、管理する技術が身についている。徒歩の捕虜軍団をたちまち「歩兵」にしたて、「督戦」する技術を持っていたのだ。
 遊牧民は、アフリカのサバンナを徒歩で牛をかりたてるマサイやダトウーガでもそうだが、社会成員は、すべて潜在的な「戦士」なのだ。──近代兵制の出現する以前から、「国民皆兵」の社会なのである。「他者の権威や強制力によってではなく、自分の力で自分を──自分の財産、家畜、名誉をふくめて──守れないもの、守るために闘わないものは人間ではない」というのが基本的モラルである。
 これほど相互に異質な世界が、顔をあわせたら、お互いが相手をどういうふうにみるか、まことに興味のあるところではないだろうか?(本文より)

ピラミッド型ヒエラルキイ

 日本のように、まわりの自然のなかで四季それぞれに花が咲き、自然そのものが、「カレンダー」であるような土地では、中国から輸入された「暦」というものは一種ハイカラな「改良」のようにうけとられたが、「暦」が「神権政治」にとって、どんなに重要なものであったかということは、当の中国をみれば一目瞭然である。──中国の「天子」は、文字どおり「天の子」であり、「天」から自然の支配をまかされている存在である。天体・季節の運行も、早(かん)ばつも、降雨もすべて天子の責任であり、もし長期の日照りでもあれば、天子は「天壇」にこもって、天に濛々(もうもう)と煙をあげ、降雨を祈らねばならない。もし、雨が降らなければ、「天命革(あらたま)る」というので「革命」になる。そして、年間の農作業の目安になる「暦」の発行は、「授時──人民に時を授ける」ということで、天子の重大な任務だった。そして暦が狂うと──とくに日・月蝕がくると──天子の権威が失墜するので、暦は太古からたびたび改正された。太古から秦まで六回改正されたとつたえられ、この習慣ははるか後代、清までつづいた。
 古代農業文明における支配者は、天と語って「正確な農事情報の提供」を行なって、広域多収穫という神秘な「奇蹟」を行なう「神権王」であり、その王の神秘を助けるのが「神官」であり、それを記録するのが「官吏=書記」であった(「王」は、ただ強くかしこいだけでなく、何か常人とちがった「奇蹟」──たとえば病人をさわっただけでなおすとか──ができなければならない、という「思想」ははるか後代の封建ヨーロッパまでつづく。ゲルマンの「王」たちは、「法王」と奇蹟をきそいあったのである)。そしてその神秘をとり行なうところが「神殿」であり、関係者の住むところが神殿「都市」だった。
 通常、「文明」の発生の条件には、「文字=記録」の使用と、「官僚=神官・僧侶」といった、それを専門的にあつかって、みずからは直接生産しないフルタイム・スペシャリストの発生と、恒久的な「都市」の出現があげられる。
 このうち、「都市」というものについて、今でも若干の混乱がある。──「都市」を古代ギリシアの「ポリス」から近代都市までの系列で考え、都市(ブール)にはかならず「都市住民(ブルジョワ)」がいるものときめこんでしらべてゆくと、シュメールにしろ、エジプトにしろ、あきらかに大文明であるのに、「都市居住遺構」が出てこないばあいがある。新大陸でも、マヤやアステカの巨大遺構は、多勢の住民が長年にわたって住んだらしいあとが見つからない。しかし、これらの「文明」には、ほとんど例外なく、「神殿遺構」はある(例外とされるのは、整備された移住跡があるのに、神殿らしいものが見あたらないインダス文明のモヘンジョ・ダロやハラッパだが、ここにも「集団祭祀場」らしいものはある)。そして、最近では、「都市文明」とは、都市内居住区よりも「神殿」つまり、広域情報の中心的施設の在否を重視すべきではないか、という意見が強まりつつある。
 こうして、農業「文明」には、ピラミッド型の基本的なヒエラルキイが発生する。神権王、神とのコミュニケーションを補佐する神官、世俗向けの問題を処理する法官(法典もまた、大もとは「神」からさずけられたものである)、記録官、土地所有者(大小、自営、委託経営にかかわらず)、非土地所有者、異邦人、というシステムである。王の傍に王族貴族が位置する。──ここで問題は「軍人」である。
 実をいうと、最古の農業都市文明である古代シュメールにおいて、「軍人」は本質的な要素ではなかった、という説があるのである。──対外的な危機があったときだけ、臨時に適任の有力者が──王・貴族のばあいが多かったろう──司令官に集会で任命される。
 では、「軍隊組織」は? これも、平時の灌漑土木を行なう集団労働組織が──むろん一般民の「夫役」のかたりで行なわれていたろうが──そのまま「軍団」となったという説もある。
 軍人としてのフルタイム・スペシャリストは、おそらく「傭兵(ようへい)」だったろう。王のボディー・ガード、神殿宮殿の護衛、財宝、穀物倉庫の番などに、土地を持たない細民子弟や、ときには貧寒な山岳地帯から出てきた連中がなったであろう(山岳民の出かせぎのかなり重要な部分が「傭兵」だったことは、現代でもスイスの傭兵、ベトナムのモイ族、インドのグルカ兵などをみればわかる)。(本文より)

2011年11月11日金曜日

歩き方

本日、近つ飛鳥博物館へ行ってきた。

ちょうどおひるごはんの時間帯だったので、喫茶コーナーでカレーを食べた。
有名な建築家が設計した建物らしいが、「うどん」を食べたいと思った。
ここは大阪やけど、『近つ飛鳥』なら(奈良)ではのメニューがあってもいいのでは・・・?

風土記の丘は古墳群である。

朝から風邪気味だったので出かけるを躊躇したが、専門家に素朴な疑問を解いてもらってスッキリした。

2011年11月5日土曜日

農耕社会の構造

 これはまったくの私説であって、類推にすぎないのだが、私なりにそれぞれの「ハード・コア」が、どういう条件で形成されてゆくか考えてみたい。
 まず農業社会から考えてみよう。──農業社会の成員の資格は、一戸一戸の主が「土地管理者」である、ということである。むろん、「開墾」「播種(はしゅ)/田植」「収穫」のときなどが、「協同作業」がないではないし、共同体のための「共同管理」の土地がないではないが、基本的には家族ごとに、個々の「たつきの道」を持つのが一般的であろう。
 ところで、世界でもっとも古く成立したといわれる「根栽農業文化圏」──東南アジアで発生したタロイモ、ヤムイモ、バナナ、サトウキビなどを主とする、農業文化──では湿熱地帯であるうえ、上記の作物の「備蓄」がむずかしい。したがって、救荒備蓄もあまりできないばかりでなく、大豊作になっても、食べきれなければくさらせるばかりである。
 しかし、地中海型ムギ作文化圏では、乾燥しているうえ、イネ科穀物は備蓄がきく、凶作や変事にそなえて、ふだんから各戸がいくらかをさいて、「共同倉庫」に備蓄することも可能なら、「大豊作」の余剰ストックもできるし、何よりも、「技術革新」によって、「直接耕作者」でないが、大量の人員を養ったり、また他地域の「物産」と交換することもできるのだ。
 五千年前、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス下流のシュメールで起こったといわれる「世界最古の文明」というものは、まさにこういった「農業革命」、「農業技術革新」によって点火されたのであろう。現在のこるシュメールの粘土文書によると、五千年前のシュメールの農業生産力は、播種量の八十倍という高いものであることがわかっている。この数字を、当時から四千年のちの、九世紀アルプス以北ヨーロッパの二倍という数字にくらべてみれば、どんなに高いものかわらるであろう。十二、三世紀になっても、ヨーロッパのムギ作は、やっと三倍から四倍というところだった。しかもシュメールには、当時すでに、牛に牽かせる条播機(じょうはき)──スキでたがやしながら同時に種を蒔(ま)き覆土する農具──があった。ヨーロッパにおける条播機の出現は十八世紀である。
 どうして、五千年前に突如として、こんな「技術革新」が起こったのか?外部的要因としては、ちょうど五千年前あたりが、気候史でいう「最適気候期(クリマティック・オプティマム)」──世界的に気候が温暖で多雨であった時期──にあたった、ということもあろう。技術的には、家畜の使用、農業機械の改良、灌漑土木の発達、土地管理システム、また組織労働システムの発達、といったさまざまなことが考えられる。それまでいろんな地域で別個に発生し、準備されていた技術が、突然ここで集約化しはじめたのかもしれない。──しかし、ここで見おとしてはならないのは、シュメールが、世界最古の「文字・記録」の大量使用をはじめた、ということである。粘土板にきざまれて大量にのこっているシュメール楔形文字(せっけいもんじ)の記録の大部分は経済文書である。が、重要なことは、農業技術の教科書をかねた「農事暦」がのこっていることである。「文字」があり「暦」があるということは、それを操る「専門家」がいたと考えてほぼまちがいない。
「記録専門家」の存在が、ややおくれて発生するエジプト文明では、「書記」という職業ではっきりしてくる。りっぱな「書記像」がいくつものこっており、「書記になれ」という勧誘文書までのこっている。──一方、「暦」のほうは、バビロンではあの高度に発達した「天体暦」になり、エジプトでは、ナイル増水をもとに、世界最初の「太陽暦」が生まれるのでが、王の年代記とともに、もっとも「神聖な記録」に属した。──その神聖さには、王・神官のもたらす「奇蹟」よる広域支配、神権政治の秘密がかくされていると思われる。
 チグリス・ユウフラテス下流、ナイル下流、インダス河下流、といったオリエントにおいて農業革命にもとづく「文明」の発生した地域は、大河下流ではあったが、けっして直接的に雨の多い地域ではなかった。
 文明は、上流山岳地帯、多雨地帯の降水によって起こる「洪水」を、灌漑水路によって管理することによってはじまる。エジプト古王朝の発生したカイロ付近では、ほとんど雨が降らないかわりに定期増水がある。メソポタミア下流部では洪水はときおりかなり大荒れする。しかし、いずれにしても、洪水前にこれを予知して、灌漑水路を上手に管理すれば、大量の水は、肥沃な土を耕地に客土(きゃくど)してくれて、肥料なしにおどろくほどの多収穫が毎年持続する。──そして晴れわたった空のつづくなかで、「洪水の到来」を事前に予言し、広域の人びとに、いっせいに水路整備の準備にとりかからせる「サイン」が暦であり、これによって「広域例年多収穫」の奇蹟が起こるのである。(本文より)

2011年11月4日金曜日

文化の相互浸透

 ところで、ユーラシア大陸において、もっとも頻繁(ひんぱん)に、かつはげしく、ステップ遊牧民の浸透・征服を蒙(こうむ)ったのは、ステップ地域と地理的につながっている地中海型農業地帯や、インド北部、中国北部であった。──こういう地域では、歴史的に何千年も昔から、遊牧系と農業系が衝突をくりかえしているので、「対立」だけでなく、「相互浸透」もはなはだしかった。
 もっとも「相互浸透」といっても、まず戦闘において遊牧系が勝ち、「征服者」として農業社会のうえに重層的にのっかり、ついで農業社会の豊かな蓄積と、主として「都市文明」」に「融合」するうちに脆弱(ぜいじゃく)化し、けっきょく農業・都市文明に吸収されてゆく、というケースがほとんどである。そして、この農業文明と「融合」する時期に、農業文明の持っている神権政治的官僚制を通じて、これを軍事的にも社会組織的にもひじょうに「強く」して「大帝国」を築きあげることがある。
 アッシチア、ヒッタイト、古代ペルシア、インドのマガダ朝(シャカを生んだ一族であるがスキタイ系といわれる)、マウリア朝、中国における最初の帝国殷も王朝は遊牧系のにおいが強いし、西北部陝西に起こって戦国の世を統一した秦も、遊牧系征服王朝の性格がつよい。古代ギリシア人も北方から南下してきたアーリア系であるし、ローマも同様だった。中国ではほかにトルコ系王朝といわれる隋、ツングース系の女真族の金、モンゴル系の元、同じく女真族の清があるし、西アジアではオスマン・トルコがそうである。
 (ここでちょっと不用意に農業「文明」という言葉を使ったが、農業「文化」と遊牧「文化」は「異質」ではあるが、それぞれある時期まで対等の強さを持つぐらいに高度に発展したものとして、いったい遊牧「文化、社会」は農業「文明」に匹敵するほど独自な遊牧「文明」をつくり上げたかどうか、という問題がある。──現在私たちは、農業地帯に蓄積記録された「歴史」や「遺跡」によって「文明」を考えているので、移動性が高いためにほとんど「遺跡」をのこさない遊牧社会については、その面からは判定しようがないが、ひとつには「文明」というものの定義によるところもあろう。今のところ、遊牧社会は、農業「文明」のうえにのって、「征服者・支配者」になることはあっても、それ自身の中心部に、独自の「文明」が築かれたことはないようにみえる。しかし、「文明」というものの定義、尺度のとり方によっては、たとえば、モンゴルの各汗国のうち、あるものは、農業「文明圏」の外にあって、しかも農業文明を支配した、独自の遊牧「文明」といえるかもしれない)
 農業「文化」と遊牧「文化」というものはある時期までにそれぞれ高度に発達した「異質」なものだ、といった。──そして「文化」というのは、いったん形成されると、なかなか根強いもので、征服、被征服から融合・吸収の段階になっても、おのおのの「ハード・コア」は、容易なことでは消滅しない。それは、もっとも強く、「価値観・人間観・人生観・社会観・世界観」といったものにのこってゆく。(本文より)

遊牧社会の特徴

 前章に述べたように、農業社会と遊牧社会とでは、その「生活のために管理する“生物”」が、植物と動物=高等哺乳類というようにたいへん性質のちがうものであるため、それぞれの社会が発展してゆく過程で、生活様式・技術や、「自然・世界観」、あるいは「生きてゆくうえでの心がまえ」や「人間観」にまで大きなちがいが生じてきた。
 遊牧社会というものが、どういうもので、どうやって発生してきて、どういう発展をとげたか、ということは、現国立民族博物館館長の梅棹忠夫先生の『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫24)に、じつにわかりやすく、しかもあますところなく述べられているから、ぜひご一読をお勧めする。──梅棹先生は、戦前からアジア遊牧民の社会と生活の研究をはじめれれ、旧大陸系の牧畜社会の類型をあますことなく探求されたが、この著作には、遊牧社会に関する、重要で大胆な説が三つあげられている。それを要約すると、
  一、「遊牧」という生活形態は、従来欧米で唱えられていたように、農業社会がまず成立し、そのなかにとりこまれていた「家畜飼養」が分離していったものではなく、むしろ、ユーラシア・乾燥地帯において、農業とは別個独立に発生していった可能性がつよいこと
  二、農業が、現在考えられているように東南アジア根菜農業や、アジア照葉樹林型農業と、それぞれの地域で、基層において、別個の植物を栽培化し、独立に発生したとすれば、遊牧社会でも、北方アジア・ツンドラ地帯のトナカイ遊牧、中央アジア・ステップ地帯のヒツジ・ウマ遊牧、西南アジア砂漠地帯のヤギ・ラクダ遊牧、北アフリカ・サバンナ地帯のウシ遊牧の四類型に、それぞれ起源が別々である可能性があること。 
  ──そして、このうちとりわけ、独自・独立的に高度な発展をとげたのは、アジア・ステップ地帯のヒツジ・ウマ遊牧社会であること
  三、遊牧社会・文化は、農業社会とちがって、移動性が高いため、これまで「都市的蓄積」を行なわなかったが、欧米でこれまで考えられてきたように、農業社会より「おくれた」「野蛮な」社会・文化なのではなく、農業社会と「異質な」、しかしある時期まで農業社会と対立しうるほど、高度に発展したものであったこと
 ということになる。人類史をみてゆくと、歴史時代に入ってから、ユーラシア大陸では中央アジアのステップ型大草原から、たびたび「遊牧民族」が西アジアの地中海型農業世界である「肥沃な三日月地帯」や、インド、中国北部へ侵入し、農業地帯を蹂躪(じゅうりん)して「征服」を行なっている。──前二千年紀から、アーリア人や、ヒッタイト、イラン系で集団騎馬戦法を発明したといわれるスキタイ、あるいは中国の匈奴、フン、セルジュク・トルコ、モンゴル、遊牧化したツングース族など、すべて「歴史を書きかえる」ほどの大変動を、農業文明地帯にひき起こした。
 これも梅棹氏の指摘であるが、現在もなお「精悍(せいかん)」の印象を与えている、西南アジアの砂漠遊牧民であるベドウィン族は、オアシス都市・農耕民と「相補的」な関係になり、砂漠から興って農業地帯へ大征服を試みたということはなかった。七世紀にマホメットによって起こされた壮大なイスラムの「聖戦(ジハード)」は、彼らを先頭部隊にしたが、イスラムの中心はオアシス都市商業民と農耕民だったのである。──砂漠地帯のラクダ・ヤギ遊牧は、植生がステップ地帯にくらべて悪く、したがって生産力が貧しくて、とても「独自に」農業社会に対して対立するほどの力がなかったらしい。(本文より)

移動と定住

 生活空間や生活リズムそのものが、農業社会とは大いにちがう。──農業社会は、おおむね定着的である。移動性の比較的高い「焼畑農業」をいとなむ社会でも、一ヵ所にだいたい四、五年は定着する。これに対して、遊牧社会は、まさに「広域移動」でなりたっている。現在でも、中央アジアの典型的な遊牧地帯では、遊牧民は家畜とともに、夏冬のあいだに千キロメートルは移動している、という。──そもそも、遊牧社会のハード・コアが形成だれた乾燥地帯では、「動かなければ生活できなかった」のである。乾燥地帯は、その名のとおり、乾燥によって植物相はきわめて貧しい。寒帯、亜寒帯では、これに地下凍結や、日照量のすくなさが加わる。南方では、紫外線による土壌分解がすすんで、地味の貧因な所も多い。植物による土壌成分の肥沃化の度合いもすくないから、地味の養分低下はいっそう拍車がかかる。植物は、ごつごつした土地に、うすくまばらに生えるばかりだ。──そのかわり、十ミリ、十五ミリといった雨が降っただけで、一面の枯野や乾ききった砂漠が、一面にうす緑におおわれることもある。
 こういう地域では、灌漑土木がすすまないかぎり、農業は不可能である。北方へ行くと、降水量はかなりあっても、気温が低いために春蒔(ま)きの麦でも、十センチぐらいにしかのびない。──この痩(や)せた大地の表面を、うすく、広くおおう植物を、自分で歩きまわって「栄養」を集めてkyれるのが草原有蹄(ゆうてい)類である。そしてこの「自動栄養採集装置」の家畜のなかに凝縮された高カロリーの栄養に依存しているのが遊牧民である。──家畜を飼うのには、農業をやるときほどの水はいらない。乾期にも伏流水が顔を出しているオアシス、雨期には地上に生ずる川や水たまり、その周辺の草、文字どおりこれらの「水草を追って」遊牧民は移動してゆく。
 春から夏へかけて、「雨」のベルトは温風にのって、しだいに乾燥地帯の奥へと移動する。それを追って、遊牧民の家畜も移動する。冬期になると、寒気と風雪が南下し、草が枯れてくるにつれ、彼らもまたあたたかい地方へ移動するのだ。家──テントも、家財道具も、女子供も、老人も、社会の行政機関もすべてがいっしょに移動するのだ。中世ヨーロッパ人が、モンゴル人の生活を見て、「移動する都市」とよんだのも無理はない。山岳地帯へ──ときにはやむをえない事情で──定着した連中は、「水平移動」を「上下移動」にかえることがある。
夏は家畜をつれて、涼しい山岳地帯に雪線ちかくまでのぼって放牧し、冬になるとあたたかい低地へおりてくる。夏のあいだ、斜面から低地へかけて、粗放な農業を営むばあいもある。こういうばあい、山腹の「夏小屋」と、低地の「冬家屋」の二つを持つことが多い。
 いずれにしても、「遊牧社会」に不可欠な生活様式は「移動」であり、したがって彼らの「生活空間」は、近代以前においてはるか地平線の彼方、千キロにわたってひろがっていた。「定着・安住」が主たる生活様式で、よほどのことがないかぎり、「長距離旅行」に出かけない農業社会の民と、たいへんちがった「世界観」を抱くようになるのも当然であろう。そして、この二つの「異なる文化系」が接触し、対峙(たいじ)し、ときには衝突し、オーヴァーラップしはじめるにつれて、人類社会の歴史は、大きな変動を経験するようになってゆく。(本文より)

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