2010年8月27日金曜日

大麦の歴史 
大麦は世界最古の穀物の一つといわれ、およそ1万年ほど前から西アジアから中央アジア(現在のイラク付近)で栽培されていたといわれています。また、古代エジプトのツタンカーメン王の墓(約三千年前)から、副葬品として納められた大麦が発見されています。日本へは、小麦よりも早く、1,800年ほど前に中国から朝鮮半島を経て伝わったと考えられ、奈良時代には、日本各地で広く栽培されていました。
お米と混ぜて「大麦ごはん」として食べられるようになったのは、平安時代からといわれています。(全麦連 http://www.zenbakuren.or.jp/trivia/index.htmlより引用)

小麦の歴史
中央アジアのコーカサス地方から西アジアのイラン周辺が原産地と考えられている。1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まった。その後1粒系コムギはクサビコムギAegilops speltoidesと交雑し2粒コムギになり、さらに紀元前5500年頃に2粒系コムギは野生種のタルホコムギAe. squarrosaと交雑し、普通コムギT. aestivumが生まれたといわれる。普通コムギの栽培はメソポタミア地方で始まり、紀元前3000年にはヨーロッパやアフリカに伝えられた。
聖書の中にも頻繁に「麦」や「小麦」が登場し、重要な作物であったことがわかる。聖書の中で小麦が最初に登場するのは、最初の書である創世記(30章14節)である。
中国への小麦の伝来も文献などからシルクロードが開かれた紀元前1世紀頃(前漢)時代と考えるのが一般的であり、中国経由で伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良・平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)が、一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年・808年・819年・839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の碾き臼がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉とふすまに分離する必要がある。碾き臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。
日本では製粉技術が未発達だったゆえ、小麦その他「粉」を使用した食品は、長らくぜいたく品とされた。庶民がうどん、饅頭、ほうとう、すいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、碾き臼が普及した江戸時代以降である。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

 Wheat tabletsで検索の結果、http://sevenfoldtruth.com/urantia-clues23.htmより画像を引用。
大麦の楔形文字

2010年8月21日土曜日

シュメール

シュメール
(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。

シュメール人はさまざまな都市国家に居住し、それぞれジッグラトと呼ばれる神殿の周囲に集住していた。彼らは神がそれぞれの都市を所有すると信じていた。主だった大きな都市は、エリドゥ・キシュ・ウルク・ウルなどである。王たちは、軍隊や商業を支配し、都市を統治した。

シュメール人は、大麦・ヒヨコマメ・ヒラマメ・雑穀・ナツメヤシ・タマネギ・ニンニク・レタス・ニラ・辛子を栽培した。さらに彼らは、ウシ・ヒツジ・ヤギ・ブタを飼育した。 また、主要な役畜として雄牛を、主要な輸送用動物としてロバを使役した。シュメール人は魚や家禽を狩った。
シュメール人の農業は、灌漑にかなり依存した。灌漑は、羽根つるべ・運河・水路・堤防・堰・貯蔵庫を使って行われた。運河には、たびたびの修復作業と沈泥の除去が要求された。政府は個人に運河で働くことを求めたが、富裕な者は免除されることができた。
農民は、運河を使うことによって、彼らの畑を水で満たし、さらに排水した。次に、農民は雄牛に地面を踏みつけさせ、雑草を枯れさせた。その後で、彼らはつるはしで畑を引きずった。畑土が乾いた後で、彼らは鋤ですき、馬鍬でならし、熊手で掻き、根掘り鍬で土を砕いた。乾燥した秋には、刈り取る者・束ねる者・束を整理する者の3人1チームで収穫した。
農民は、穀物の上部を茎から分離するために脱穀用車を用い、穀粒を引き離すために脱穀用のそりを用いた。穀物と殻はふるいわけられた。

シュメール人は、控え壁(補強壁の一種)・イーワーン・半円柱・粘土釘などを用いた。

シュメールの陶工は、陶器を杉油の油絵で飾り立てた。陶工は、陶器を焼くために必要な火を起こすために弓ぎりを用いた。石細工や宝石細工には、象牙・金・銀・方鉛鉱が使われた。

シュメールでは、女性は他の文明よりも高い地位を達成したが、文化は主として男性により支配され続けた。史家アラン・I・マーカス曰く「シュメール人は、個人の人生においてやや厳しい展望を持っていた」。
あるシュメール人は次のように書いている。「私は、涙、悲嘆、激痛、憂鬱とともにある。苦痛が私を圧倒する。邪悪な運命が私を捕らえ、私の人生を取り払う。悪性の病気が私を侵す」
別のシュメール人はこう書いている。「なぜ、私が無作法な者として数えられるのか? 食べ物はすべてあるのに、私の食べ物は飢餓だ。分け前が割り当てられた日に、私に割り当てられた分け前が損失をこうむったのだ」

シュメール人は、奴隷を使役した。女性の奴隷は、織物・圧搾・製粉・運搬などで働いた。
石材・銀・銅・木材が、インドやアフリカから来た。ラクダの隊商が、雄牛に引かれた荷車やそりとともに、品物をシュメールへと運んで来た。

下剤や利尿剤は、シュメール人の薬の大多数を占めた。
シュメール人は、尿・酸化カルシウム・灰・塩から硝石を生産した。彼らは、ミルク・ヘビの皮・カメの甲羅・カシア桂皮・ギンバイカ・タイム・ヤナギ・イチジク・洋ナシ・モミ・ナツメヤシなどを組み合わせた。彼らは、これらとワインを混ぜ合わせて、その生成物を軟膏として塗った。あるいはビールと混ぜ合わせて、口から服用した。
シュメール人は、病気を魔物の征服とし、体内に罠を仕掛けられるようになると説明した。薬は、身体内に継続的に住むことが不快であることを、魔物に納得させることを目標とした。彼らはしばしば病人のそばに子羊を置き、そこに魔物を誘い込んで屠殺することを期待した。利用可能な子羊でうまくいかなかったときは、彫像を使ったかもしれない。万一、魔物が彫像へ入り込めば、彼らは像を瀝青で覆うこともした。

城壁は、シュメールの都市を防御した。シュメール人は、彼らの都市間の包囲戦に従事した。日干しれんがの壁は、れんがを引きずり出す時間的余裕のある敵を防ぎきれなかった。

シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていた。そのうち軽装歩兵は、戦斧・短剣・槍を運搬した。正規の歩兵は、さらに銅製の兜・フェルト製の外套・革製のキルトなどを着用した。シュメールの軍隊は、古代ギリシャ同様の重装歩兵を主力とし、都市防衛に適したファランクスを編成していたことで知られる。
シュメール人は戦車を発明し、オナガー(ロバの一種)を牽引に利用した。彼らの初期の戦車は、後世の設計の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能しなかった。幾人かが示唆するところによれば、搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として役だった。シュメール人の戦車は、二人の搭乗員が乗り込んだ四輪の装置で、4頭のオナガーを牽引に利用していた。台車は、一つの織られた籠と頑丈な三片設計の車輪から構成されていた。
シュメール人は、投石器や単純な弓を使用した(後世に、人類は合成の弓を発明する)。

シュメールの神殿は、中央の本殿と一方の側に沿った側廊から成っていた。側廊は、神官の部屋の側面に立っていたであろう。一つの端には、演壇、および動物や野菜を生贄に捧げる日干しれんがのテーブルがあったであろう。穀物倉や倉庫は通常は神殿の近くにあったろう。後にシュメール人は、人工的な多層段丘「ジッグラト」の頂上に神殿を置き始めた。
シュメール人の宗教は、現代宗教の多くにとって、インスピレーションの根拠・源であると考えられる。シュメール人は、地母神であるナンム、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥクなどを崇拝した。
シュメール人が崇拝するディンギル、すなわち神々は、それぞれ異なる都市からの関連を持っていた。神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。言い伝えによれば、ディンギル(神)たちは、彼らに奉仕させる目的で、粘土から人間を創造した。ディンギルたちは、しばしば彼らの怒りや欲求不満を地震によって表現した。シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。
シュメール人は、宇宙がスズ製のドームに囲まれた平らな円盤から構成されると信じていた。シュメール人の「来世」は、悲惨な生活で永遠に過ごすためのひどい地獄へ降下することを含んでいた。

シュメール人の技術には、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)・留め金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・バッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどが含まれていた。
チグリス・ユーフラテス両河の平原には、鉱物や樹木が不足していた。シュメールの構造物は、平らまたは凸の日干しれんがから成っていて、モルタルあるいはセメントで固定されてはいなかった。平凸のれんがは(丸みを帯びて)多少不安定に振舞うため、シュメール人のれんが工は、れんがの列を残りの列に対して垂直に置くだろう。彼らは、その隙間を瀝青・穀物の茎・沼地のアシ・雑草などで埋めるだろう。
シュメール人は、三つの主要なボートの型を持っていた。
    * 革製のボートは、アシや動物の皮膚から成っていた。
    * 帆掛け舟は、瀝青で防水をした特徴がある。
    * 木製オールの付いた船は、ときには近くの岸を歩く人や動物によって上流に引かれた。

地方の諸国家が強さを増すとともに、シュメール人はメソポタミアの多くの部分で政治的な覇権を失い始めた。アモリ人がシュメールを征服してバビロンを建設した。紀元前2000年頃、バビロニア人が南部を支配する間に、アルメニアのフルリ人がミタンニ帝国を打ち立てた。両者とも、古代エジプトとヒッタイトに対抗して自らを守った。ヒッタイトはミタンニを破ったが、バビロニア人によって撃退された。紀元前1460年頃、カッシート人がバビロニア人を破った。紀元前1150年頃、エラム人がカッシートを打ち負かした。

シュメール人は、おそらく彼らの多くの発明のために思い起こされるであろう。多くの権威者が、車輪や陶工ろくろの発明を彼らに帰す。彼らの楔形文字は、私たちが証拠を持っている最古の文字体系であり、古代エジプトのヒエログリフより少なくとも50年は早い。彼らは、最初の公式な天文学者であった。彼らは戦車を発明し、ひょっとしたら軍の隊形を発明したかも知れない。おそらく重要なことには、シュメール人は最初に植物と動物の両方を育てていたと、多くの学者が信じている。前者の場合は、突然変異の草を系統的に栽培・収穫することであり、一粒小麦や二粒小麦として今日知られている。後者の場合は、原種のヒツジ(ムフロンに似る)やウシ(ヨーロッパヤギュウ)をお産させて飼育することである。これらの発明や革新は、容易にシュメール人を先史や歴史の中で最も創造的な文化に位置付けるものである。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

2010年8月20日金曜日

ビール

ビール
(英: beer,蘭: bier)はアルコール飲料の一種。麦を発芽させた麦芽を酵素(アミラーゼ)で糖化させ、ビール酵母でアルコール発酵させて作る。漢字では麦酒(ばくしゅ)と表記される。
その歴史は古く、既にメソポタミア文明のシュメール人により大麦を使い作られていた。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。紀元前3000年頃に古代エジプトにビールの製法が伝わった。
これらの古代オリエントのビールは、麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは小麦のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また消化もよくなる。つまり、ビールは元来製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。穀類を豊富に産したメソポタミアやエジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。実際、古代エジプトのパピルス文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間のたった固いパンを液体でふやかすという発想は、ヨーロッパのスープの原型となった、だし汁でふやかしたパンとも共通しており、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)


上記から、ペーパーにトレース。

2010年8月15日日曜日

ナツメヤシ

ナツメヤシ
(棗椰子、学名:Phoenix dactylifera)はヤシ科の常緑高木。果実(デーツ、Date)は北アフリカや中東では主要な食品の1つであり、この地域を中心に広く栽培が行われている。
非常に古くから栽培されているため、本来の分布がどうであったかははっきりしない。北アフリカか西南アジアのペルシャ湾沿岸が原産と考えられている。
雌雄異株。樹高は15-25mで、単独で生長することもあるが、場合によっては同じ根から数本の幹が生え群生する。葉は羽状で、長さは3メートルに達する。葉柄にはとげがあり、長さ30センチ、幅2センチほどの小葉が150枚ほどつく。実生5年目くらいから実をつけ始める。樹の寿命は約100年だが、場合によっては樹齢200年に達することもある。
メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6000年代にはすでに栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4000年代に栽培されていたことを示す考古学的証拠が存在する。ウルの遺跡(紀元前4500年代−紀元前400年代)からは、ナツメヤシの種が出土している。アッシリアの王宮建築の石材に刻まれたレリーフに、ナツメヤシの人工授粉と考えられる場面が刻まれていることはよく知られている。
ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンに頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであるといわれる。クルアーン第19章「マルヤム」には、マルヤム(聖母マリア)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を産み落としたという記述がある。アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「汝と同じ物質より創造されたこの木の実を食べよ」と教えたとされる。またムスリムの間では、ナツメヤシの実は預言者ムハンマドが好んだ食べ物の一つであると広く信じられている。なお、聖書やヨーロッパの文献に登場するナツメヤシは、シュロ以外のヤシ科植物が一般的ではなかった日本で紹介されたときに、しばしば「シュロ」、「棕櫚」と翻訳されている。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

上記から、ペーパーにトレース。

2010年8月14日土曜日


(す、醋とも書く)は、食品に酸味を付与または増強し、味を調え、清涼感を増すために用いられる液体調味料のひとつ。1979年6月8日に「食酢の日本農林規格法」が公示・施行され、JASでの呼称は食酢(しょくす)となった。
酢酸を3-5%程度含み、その他に乳酸、コハク酸、リンゴ酸、クエン酸などの有機酸類やアミノ酸、エステル類、アルコール類、糖類などを含む。
一般的には、原料になる穀物または果実から酒を醸造し、そこへ酢酸菌(アセトバクター)を加え、酢酸発酵させて作る。
フランス語で酢を意味する vinaigre が単純に vin aigre (酸っぱいワイン)に由来していること、また、漢字の「酢」と「酒」が同じ部首をもつことからわかるように、酒との関連性が深く、有史以前、人間が醸造を行うようになるのとほぼ同時期に酢も作られるようになったと考えられている。
文献上では紀元前5000年頃のバビロニアですでに記録に残されている。日本へは応神天皇のころに中国から渡来したとされる。律令制では造酒司にて酒・醴とともに造られており、酢漬けや酢の物、膾の調理に用いられていた。後には酒粕を原料とする粕酢や米や麹を原料とする米酢が造られるようになる。江戸時代には前者は紀伊国粉河、後者は和泉国堺が代表的な産地として知られていた。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

酢は人間が手を加えて作った最古の調味料と言われています。
最も古い酢の記録は紀元前5000年のバビロニアの記録といわれ、当時バビロニアではデーツ(ナツメヤシ)や干しぶどうの酒やビールから酢をつくったといわれています。ナツメヤシはヤシ科の木で、その果実であるデーツのシロップからは良質の酢がつくられたということです。(お酢のことなら お酢AtoZ http:// a2z-vinegar.com/info/017.htmlより一部転載)

上記から、ペーパーにトレース。

2010年8月2日月曜日

刺身

二人の前には刺身がならんでいる。ビールは3本目だった。(火の路・松本清張より)

上記から、フォトショップ・エレメンツでトレース。
刺身(さしみ)とは、主に魚介類を生のまま切り、醤油・酢味噌などの調味料にワサビ・ショウガなどの薬味を合わせて食べる料理の総称である。 刺身は、その鮮度のよい食材そのものの味を最大限に利用した料理とも言われる。和食に出される事が非常に多い日本の食事であり、日本国外でも食べられている。
新鮮な獣や鳥の肉・魚肉を切り取って生のまま食べることは人類の歴史とともに始まったと言ってよいが、人類の住むそれぞれの環境に応じて、生食の習慣は或いは残り、或いは廃れていった。日本は四方を海に囲まれ、新鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境にあった為、魚介類を生食する習慣が残った。即ち「なます(漢字では「膾」、また「鱠」と書く)」である。
「なます」は新鮮な魚肉や獣肉を細切りにして調味料を合わせた料理で、「なます」の語源は不明であるが、「なましし(生肉)」「なますき(生切)」が転じたという説がある。一般には「生酢」と解されているが、それは調味料としてもっぱら酢を使用するようになったことによる付会の説であり、古くは調味料は必ずしも酢とは限らなかった。この伝統的な「なます」が発展したものが刺身である。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

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