2013年12月31日火曜日

エムイーエスエスエージージーイー

これといっていいことがなかった一年。
来年は、よくなると思えない・・・。

TVは、何をいってるんだかよくわからない。
「おもてなし」って、どうよォ。
(歪みを画像修整)
ゴミだらけ、日本。

リーフレットをなぞる作業はしんどいし、文字を追っているだけで内容を把握せずに終えてしまう。
ただ、作業中にピッピと何かが浮かんでくるような感覚がある。

平成24年度企画展
土器からのメッセージ

平成24年12月5日(水)~平成25年4月21日(日)

◆開館時間
9:00~16:30(入館は16:00まで)
◆入館料
一般200円 小・中学生100円
(団体20名以上 一般150円 小・中学生50円)
◆休館日
毎週月・火曜日(祝日の場合開館)、祝日の翌日
年末年始(12/28~1/4)

[体験講座]
「施文と拓本にチャレンジ」 事前申し込みが必要
色々な施文具を使って、自分たちの手で粘土に文様をつけたり、土器の文様を写しとったりする拓本などを体験します。本物の土器にふれる絶好の機会ですので、皆さんふるって参加してください。作品作りもあります。

○開催日時とコース
コース           親子の部       一般の部
開催日・時間
平成25年2月16日(土) 9:00~10:30 14:00~15:30

・希望コースを選んでください。
・親子の部は子どもさんにも理解できる内容で実施します。
・親子の部は小・中学生とその保護者が対象です。それ以外の方は一般の部で参加してください。

○定 員 各コース20人(先着順、定員になり次第締め切ります。
○参加費 一人あたり300円(材料費)
○講 師 当センター職員

■申込方法
往復はがきにご希望のコース及び、参加者の住所・氏名・年齢(学校名・学年)・電話番号を記入の上、〒633-0074桜井市芝58-2桜井市立埋蔵文化財センター「体験講座」係までお申し込み下さい。折り返し参加証を送付します。

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土器は語る
 みなさんは、日ごろ博物館や資料館で土器を目にすることが多いと思いますが、それらの土器をよく観察してみてください。その中には、表面に様々な模様がついているものがあるのに気付きましたか?例えば何本もの平行した線が、水が流れているかの如くきれいに描かれたもの、あるいはギザギザの模様が規則正しく繰り返して付けられたものなど・・・。縄文土器によくみられるように、撚(よ)った糸を土器の表面に転がして模様をつける方法は、“縄文土器”の名称の由来にもなったほどで、このことはみなさんもよくご存じでしょう。また弥生土器によくみられるように、表面に動物や建物などの絵を描いたもの、あるいは記号のような印がつけられたもの、奈良時代や平安時代の土器に至っては、なんと文字まで書かれたものまであります。このように土器につけられた模様、絵あるいは文字などは、どのような理由からつけられたのでしょうか。また何を意味し、私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。今回の企画展では、土器から発せられる古代からのメッセージを皆さんと一緒に解読していくことにしましょう。

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土器につけられた様々な文様
 土器につけられた模様をよく観察すると、模様の構成にある一定のリズムで描かれているものや規則性を持ったもの、また図柄のバランスを意識したものがあることに、皆さんは気付くと思います。これらの模様は「文様(もんよう)」という言葉で表現されます。言い換えれば、装飾のために様式化したモチーフを同一の図柄などのように規則正しい繰り返しによって構成されたものなのです。さらにこれらの文様には、各時代によって様々なデザインがみられ、自動車のスタイルのように流行があります。このことから発掘調査では、出土する土器の文様が、遺構の時期を決定するための重要な手掛かりの一つになっているのです。この項では、縄文土器と弥生土器について、描く時期にどのような文様があったのか見ていくことにしましょう。

縄文土器に見られる文様
 さて、わが国において土器に文様が現れるのは、いつ頃からなのでしょうか。それは縄文時代からといわれています。縄文時代といえば、土器が初めて登場した時代であり、土器が発明されるや否や古代の人々は、すぐに自分たちが作り出した土器に多彩な文様を付けはじめました。この頃の文様は、人の爪や貝殻、あるいは縄目などの簡単な道具を使い、幾何学的な文様をつけていました。縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と6つの時期に分けられ、地域や時期によってかなり文様に特徴がありますが、その代表的なものを見ていくことにしましょう。
 草創期(約1万5千~1万1千年前)と呼ばれる頃は、土器の口縁(こうえん)部に粘土紐を貼り付けた隆起線文(りゅうきせんもん)や人の爪や箆で引っかいて文様をつけたような爪形文(つめかたもん)、そしてその後、撚った糸の縄目を押し付けた縄文が現れます。現在、桜井市内で出土した土器の中で最も古いといわれている早期(約1万1千~7千年前)頃の土器片には、人の爪で押したような押型文(おしがたもん)が施されています。ちょうどこの頃、西日本では刻み目を入れた細い棒状の道具を転がして、連続的な山形・楕円・格子目を土器の表面につける押型文が現れます。次の前期(約7千~5千年前)頃には半分に割った竹管(ちっかん)状の施文具で円や波sるいは平行線をつける竹管文、縄目を左右に使い分けて押し付ける羽状縄文(うじょうじょうもん)、二枚貝を押し当てたま引きする貝殻状痕文(かいがらじょうこんもん)などが登場してします。中期(約5千~4千年前)頃には、皆さんがよく知っているあの燃え盛るような力強い表現を持った火焔(かえん)型土器が東日本で登場してきます。そして後期(約4千~3千年前)頃には、縄文を施した部分と逆にそれを磨(す)り消した部分とを対比させる磨消縄文(すりけしじょうもん)が、晩期(約3千~2千3百年前)頃、西日本では土器の表面を無文のまま残して、簡素化されるようになったのとは対照的に、東日本でその文様が亀ヶ岡式(かめがおかしき)土器に代表されるような具象化されたものをモチーフにした雲形文(くもがたもん)や工字文(こうじもん)など精巧な文様が施されるようになりました。一方でこの頃から、土器の製作は次第に専門化していったともいわれています。

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弥生土器に見られる文様
 次の弥生時代に登場する弥生土器も、土器の表面にいろいろな文様が施されたものが登場してきますが、縄文土器で見られた力強く、あるいは呪術的な意味合いの持ったものから、平面的で端正な美しさを持った文様へと変化していき、形態もそのものの美しさを追求していきます。またこの時代には土器を回転させて文様を施すという手法も登場し、文様の種類はバラエティーに富んでいます。ここでは大和でよくみられる典型的な弥生土器を例に、その文様を見ていくことにしましょう。
●文様の名称が施文する工具に由来するもの
 弥生土器では表面をよく見ると、箆状の工具を用いて線を引いたものや櫛状の工具を用いて綺麗な平行線を引いたものがあります。前者を箆描文(へらがきもん)といい、後者を櫛描文(くしがきもん)といいます。このように弥生土器では文様をるける際、用いる工具によって大きく文様が二つに分けられます。箆描文には、沈線(ちんせん)と呼ばれる細い線が引かれています。弥生土器の中でも箆描きは、櫛描文よりも古くから見られ、前期頃には主に壺の頸部(けいぶ)に沈線を施した土器が登場します。しかしながら、箆状の工具についてはその特定が難しく、針のように細く尖らせた木・竹、あるいは骨が使われたのではないかと考えられています。
 一方、櫛描文は中期頃から見られる文様で、弥生土器によくみられる文様です。土器の表面に規則正しく平行に走る沈線が特徴で、板を櫛状にしたもの(イグサを用いたという説もある)を使ったのか箆を何本か束ねて引いたのかわかりませんが、櫛描文が施された弥生土器は、その曲線が美しく女性的な魅力を感じることができます。
●文様の名称が技法に由来するもの
 文様の名称が技法に由来するものとして、まず凹線文(おうせんもん)があげられます。回転する土器の表面に、おそらく指先を押し当てて描かれたのではないかと考えられる文様で、断面はトタン板のように波板状になっています。また凹線文は、指先の他にも布や皮などを使って施文されたとも考えられています。
 その他、凹線文以外にも、粘土を土器の表面に貼付けて装飾性を高めたものもあります。それらの代表的なものに、貼付突帯文(はりつけとったいもん)と呼ばれる文様があります。この文様は帯状の粘土紐を土器の表面に巡らせる方法で、紐の表面に刻目などを施したものがよく見られます。貼付文には貼付突帯文のはか、棒状の粘土紐を土器の縦方向に張り付けた棒状波文(ぼうじょうふもん)や薄くボタン状にした粘土を貼り付ける円形波文(えんけいふもん)などがあります。

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製作技法によって痕跡がついたもの
 土器を製作する方法に「手捏(てづく)ね」や「輪積(わづ)み」、あるいは「巻き上げ」などの方法がありますが、これらの方法では、土器の表面にできた凹凸や継ぎ目などがどうしても目立ってしまいます。これらの問題を解消するために古代の人々は、表面を整形してきれいに均す工夫を行っていました。この技法は「調整(ちょうせい)」などと呼ばれ、一般的に装飾の意味合いの強い「文様」とは区別されます。調整と呼ばれる技法には様々なものがあり、代表的なものをいくつか紹介しましょう。

[ミガキ]
 石や竹あるいは二枚貝の貝殻など表面の滑らかなものを利用してどきの表面を均す技法です。これを行うことによって表面の砂粒は内部に入り込み、表面が滑らかになります。箆状の工具を用いて磨く箆ミガキという技法は弥生土器によく見られます。
[ケズリ]
 土器の表面や内面を箆状の工具などを使って削り取ることによって形を整えたり、厚みを調整したりします。箆ケズリとも呼ばれています。ケズリをされた土器をよく観察すると、土器を削る際に小石が動いたと思われる跡が残っています。

[ハケメ]
 針葉樹などの薄い板の木口(こぐち)(切断面)を利用し、土器の表面を撫でて平に整える技法です。木口で撫でることによって、木目の凸凹がそのまま土器の表面に幾本かの平行線を形成します。ハケメの特徴は、線がきれいな筋状に伸びているのが特徴です。またハケメは、古墳時代の円筒埴輪の表面を整える際にもよく見られる技法です。
[ナデ]
 土器の表面を撫でて滑らかにする技法で、非常に緻密な擦痕(さっこん)が残ります。おそらく指先や布、あるいは皮などを使ってつけられたと考えられます。先述の凹線文もナデの技法によって生まれたものです。またナデには撫でて土器の表面を整えるものから、粘土を掻きとるようなものまであります。
[タタキ]
 土器を製作する時に叩き板と呼ばれる羽子板状の道具と内側を押さえる当て具とを整える技法です。表面を叩き締めることで粘土の中に入っている空気を抜いたり、土器を薄くしたり、より大きくしたりできます。また叩き板には粘土が付着しないように刻み目が入れられているため、タタキが施された土器の表面には、縦や横方向に連続した縞模様や格子目の文様がついています。時代が進むにつれて、これらの文様自体が次第に装飾性を持つようになったともいわれています。

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絵画土器と記号土器
 土器の表面を飾ったり整形したりする方法は、施文や調整だけに限りません。土器の中には、表面に絵が描かれたり記号がつけられたりしているものまであります。皆さんの中にも、絵画土器や記号土器という言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
奈良盆地東南部から多く出土
 弥生時代、近畿地方では土器に絵や記号を描いたりすることが流行しました。これらの土器は絵画土器、あるいは記号土器などと呼ばれ、大和では田原本町の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡を中心に出土し、桜井市内では芝(しば)遺跡・大福(だいふく)遺跡などから出土しています。そしてこれらの多くが、奈良盆地東南部に集中しています。絵画土器に至っては、全国から出土したもののうち半数以上が、奈良盆地東南部からのものであるとも言われています。また過去の出土例を調べてみると、絵画土器や記号土器は、圧倒的に壺に描かれていることが多いことがわかってきました。さらにこれまでの研究から、これらの土器は祭祀に用いられたのではないかと考えられており、廃絶した井戸、あるいは河川や溝からの出土例が多いことから、水に関する祭祀の場で使われたのだろうという説もあります。一方、時代は新しくなりますが纒向(まきむく)遺跡でも、古墳時代前期頃の祭祀土坑と考えられる穴から、箆状の工具を用いて線刻が施された壺が出土しています。これまで纒向遺跡で多数見つかっている土坑群についても、それらの大半が湧水点(ゆうすいてん)まで掘り下げられていることや、中から出土する遺物に祭祀に関するものが多いことから、以前から研究者の間では、水と祭祀の関係が指摘されていました。今回の発見例もやはり、これらの土器と水を使った祭祀との関係を示す資料として、興味深い発見例といえるでしょう。
 さて、絵画土器や記号土器に描かれている題材には、どんなものがあったのでしょうか。それらを調べてみると、絵画土器では鳥獣・魚などの動物や人物・建物など自分たちの身の回りのものが圧倒的に多く、中には長頸壺(ちょうけいつぼ)に鏃(やじり)を描いた珍しいものまであります。記号土器では箆描きで直線や曲線を組み合わせたもの、竹管文と呼ばれる竹の断面を押し付けたような「◎」文様などがあります。土器に記された記号は、これまで土器の製作者や所有者を特定するためのものと考えられてきましたが、近年の研究でこれらの記号は、絵画土器に描かれた絵の一部を取り出したものを表現しているとの考えもあるようです。
 みなさんは、絵画土器や記号土器が、祭祀の場で使われていたかもしれないなんた知っていました?弥生人が、単なる土器の装飾のために絵や記号を描いたのだと思っていたのに、本当に奥が深いお話ですよね。

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色々な文様
 土器の表面につけられた文様には、これまで紹介したもの以外にも様々なものがあります。弥生土器を中心に以下に挙げてみました。例えば弥生土器によく見られる櫛描文は、描く際に上下に振ると波状文に、扇のように回すと扇形文に、平行線の端で振ると流水文になり様々な文様に応用できます。これらの文様は基本的に土器を固定して手そ動かして描いたようですが、弥生中期頃に手を固定したままで土器を回転させて文様をつける凹線文などが登場してきました。古代の人たちも私たちと同様に、日常使う道具に愛情をこめて土器を飾るという、実にオシャレな感覚を持っていたのでしょう。

製作途中に偶然ついたもの
 土器に見られる痕跡は、土器の製作者が意図的につけたものだけたは限りません。製作途中に偶然ついたものもあります。これらは文様とは言えませんが、珍しい例として以下にあげてみました。

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墨書土器
 墨書(ぼくしょ)土器は、土器に墨書きで文字や記号・絵が描かれたもので、奈良から平安時代を中心に発達しました。坏・碗・皿などをはじめ、甕や高坏にも見られます。発見される場所は、宮殿跡・官衙(かんが)遺跡・寺院跡・祭祀遺跡・集落跡などで、書かれている文字からその遺跡の性格を知る重要な手掛かりとなります。また文字の書かれている部位は、土器の側面や底部の内外面、蓋の内外面などで、文字数は一字から数字で構成されています。文字の多くは漢字で書かれており、一字のものには略字が多いのが特徴です。もた文字のあらわす意味については、吉祥句(きっしょうく)・地名・人名・所属名・数字・用途や仏教用語などがあります。
●人の顔を描いた土器
 奈良時代や平安時代の遺跡を発掘すると、墨で顔を描いた土器が出土することがあります。これは人面墨書土器といい、土器を人の顔に見立てて、墨で耳・眉・目・鼻・口などを描いています。使われる土器も人の頭によく似た小型の丸底のものや鉢形のものが多く、出土する場所は河川や溝などの水路、井戸や池沼などです。
 人面墨書土器については、錢貨・土馬(どば)・人形(ひとがた)・斎串(いぐし)などのまじないの遺物と共によく出土することが報告されており、「延喜式(えんぎしき)」には大祓(おおはら)いの儀式が終わると、これを川に流したという記述もあります。これが事実とすれば、土器に描かれているのは疫病神(やくびょうがみ)の顔でしょうか。このように古代の人々は自分達にふりかかった災いや穢(けが)れを、これらまじないの道具と一緒に水に流し、疫病退散を祈っていたのかもしれません。
箆で文字が書かれた土器
 桜井市内では、平成2年の発掘調査で箆書きの文字が書かれた壺が発見されました。この壺の大きさは、高さ16cm・最大胴啓20cmの飛鳥時代の須恵器壺です。文字は胴部の波状文の下に縦書きに四文字がかかれ、“大阝所可”と読むことができます。和田萃(あつむ)氏の解読によると“大阝”は大伴部(おおともべ)と読み、下の二文字は名前で所可(そか)とよめます。つまり大伴部所可という人物がこの壺との関係が考えられ、注文者かあるいは所有者ではないかと考えられます。
■引用・参考文献
 このリーフレットを作成するにあたり、下記の出版物を引用または参考にさせていただきました。
  早坂優子「日本文様の歴史」『日本・中国の文様事典』(株)視覚デザイン研究所2000.1
  「えひめ弥生土器文様素描」『まいぶんえひめ№29』財団法人愛媛県埋蔵文化財センター2002.12
  藤田三郎「弥生時代の記号文」『考古学と古代史』同志社考古学シリーズⅠ 1982.10

□このリーフレットは、平成24年12月5日(水)から平成24年4月21日(日)まで、桜井市立埋蔵文化財センター展示収蔵室で開催される企画展「土器からのメッセージ」展の解説書として作成しました。
□この展示会は、(財)桜井市文化財協会が主催し、桜井市教育委員会文化財課の協力を受けて実施しました。
□展示資料は、会期中に一部陳列替えを行うことがあります。
□この展示会の企画及び本書の執筆は、(財)桜井市文化財協会 中村利光が行い、桜井市教育委員会文化財課 福辻 淳(財)桜井市文化財協会 丸山香代が補佐しました。また総括については、中村が行いました。


平成24年度 企画展 展示解説書
土器からのメッセージ
発行年月日 平成24年12月5日
編集・発行 財団法人 桜井市文化財協会
      〒633-0074 奈良県桜井市芝58番地の2
印   刷 株式会社 明新社
      〒630-8141 奈良市南京終町3丁目464番地

『土器カラノメッセージ』のリーフレットより

2013年12月14日土曜日

なぞる

金属利用の歴史」という企画展のパンフレット(?)を誤字・脱字および画像不鮮明のまま載せてみることにした。(桜井市立埋蔵文化財センター)


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《はじめに》
 石器を最初に手にして以来、人々は様々な道具を用いてきました。その中でも金属製品を手にしてから人々の生活は一変したといえます。銅や鉄をはじめ、金・銀などの金属で様々なものが作られ、現代に生きる私たちもその恩恵を受けています。
 桜井市内の遺跡や古墳では、このように様々に利用された金属が出土遺物として数多く見つかっています。切る・削るために用いられたもの、儀礼・祭祀などに用いられるもの、身に着け装飾するものや貨幣など多岐にわたって金属製品がつくられ、中には精巧に作られたものも見つかっています。
 そこで今回は市内の各遺跡・古墳から出土した銅や鉄などの金属製品から金属利用の歴史について考えてみたいと思います。

《金属製品の生産》
 金属製品を作るには、大きく三つの作業が必要です。まず一つ目は「採鉱」と呼ばれ、山などに大きく穴をあけたり、奥深くまで坑道を掘ったりして原料となる鉱石を採る作業を行います。次に、こうして手に入れた鉱石を高温で熱し、不純物を除去して金属成分を抽出する作業を「製錬(せいれん)」(精錬?)と呼びます。最後に製錬によって得た金属を「加工(かこう)」して製品が出来上がります。
 金属の加工には加熱して、または加熱なしで、金槌などで叩いて薄く延ばし、それを組み合わせるなどして製品を仕上げる「鍛造(たんぞう)」と、金属を加熱し続けて融解し、液状になったものを型に注いで製品を作る「鋳造」があります。

《青銅器の生産のはじまり》
 日本の金属利用の歴史は、鉄や青銅が稲作文化とともに縄文時代晩期~弥生前期初頭に伝わったことが始まりとされています。初期の青銅器は、武器(剣・矛・戈(か))や鏡、釧(くしろ)、小銅鐸、鉇(やりがんな)などの朝鮮半島から搬入されたものを用いており、特に武器類は鋭い刃が付いたもので、実際に使われていたものもあるようです。日本列島での青銅器の生産は弥生時代前期後半~中期前半頃に始まったと考えられており、当時の日本では金属を精錬する技術はなく、板状や棒状の青銅素材を入手し、加工して製品を作っていました。合金である青銅は銅に比べて低い温度で融け、冷えて固まると銅よりも硬くなる性質から鋳造に適しており、弥生時代中期後半頃までは石製の鋳型を使っていました。

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 弥生時代中期中頃以降、北部九州から近畿・東海地方に至る各地で青銅器がつくられるようになり、製品が大型化していきます。製品が大型化するにつれて実用性が徐々に失われ、より祭祀的な製品が作られるようになります。特に銅鐸は、はじめは高さが15cmほどの小さく厚手であったものが、最終的には高さが130cmを超える大きく薄手のものへと変化しています。また、弥生時代後期頃には、それまで石で作られていた鋳型が、粘土を焼き固めて型枠を作る土製鋳型へと変わります。型枠の中に真土(まね)と呼ばれる細かな砂を敷き詰めて、そこに形や文様を彫って鋳造するものです。

 弥生時代後期の終わり頃になると、それまでの銅鐸を用いた祭祀が終焉を迎え、あるものは埋納されたままであったり、あるものは破壊されてしまったりと銅鐸に対する価値観が変化しています。遺跡から見つかる銅鐸の
破片のほとんどは一個体分に満たないことが多く、その他の破片は別の青銅器に作り替えられた可能性もあります。

[合金とは?]
 金属に別の金属などを合成することで得られる合金は①低い温度で溶/熔ける、②より硬くなる、③腐食に強くなる、という特性が挙げられます。合金には主成分となる金属の名を取って銅合金などと呼ばれます。また、銅合金は錫との合金では青銅、金では赤銅(しゃくどう)というように材料によって名前が変わります。白銅(はくどう)と青銅は同じ錫との合金ですが、錫の割合が少ないと赤茶色のいわゆる「銅」の色になり、青銅と呼ばれます。

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〈古墳時代の青銅器〉
 銅鐸祭祀の終焉によって銅鐸は作られなくなりますが、古墳時代に入っても依然として鏡や釧、鏃などは作られ続け、筒形銅器や鈴、柄頭などが新たに作られるようになります。また、鋳型で文様を鋳出すだけでなく、タガネなどで文様を彫る彫金、銅や青銅などの表面を金や銀の薄い金属の被膜で覆う鍍金(めっき)や革綴(かわと)じや鋲留(びょうど)めなどの組立技術や象嵌(ぞうがん)などの新しい技術が使われるようになります。
 古墳時代の青銅器は時代の変遷とともに製品にも変化が見られ、古墳時代前期では鏡が多く作られました。弥生時代中期に作られ始めた鏡は、当初直径10cm以下の小型品ばかりでしたが、この頃の鏡には直径が40cmを超える大型品や直径15cmほどの中型品、3cmにも満たない小型品まで多岐にわたって作られました。鏡の多くは古墳の副葬品として見つかりますが、特に古墳時代前期では一つの古墳に数十枚の鏡を副葬することがあり、権威の象徴として扱われていることが窺えます。

[同笵(どうはん)と踏み返し]
 鋳造の方法で「同笵」と「踏み返し」という技法があります。この二つはどちらも「同じものを複数個鋳造する」という点で共通しますが、同笵は一つの鋳型から複数の製品を鋳造する方法をいい、踏み返しは製品を原型にしてそれで粘土などに型抜きをして鋳型を作り鋳造する方法を呼びます。同笵は文様や大きさがほとんど同じ製品を鋳造することができる一方で、同じ鋳型を用いているため、型についた傷がそのまま製品に写しとられてしまいます。踏み返しは製品から型を作るためまったく同じ文様を写しとることができます。また、どちらの技法を用いても、繰り返し鋳造することによって文様が不鮮明になっていくという特徴があります。


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 古墳時代中期に朝鮮半島から乗馬の風習が伝わると、その装具として馬具が使われるようになります。この馬具には馬を制御するための轡(くつわ)や、騎手を安定させるための鞍や鐙(あぶみ)、馬を飾りたてるための杏(ぎょう)葉(よう)や馬鐸(ばたく)などがあります。初期の馬具は装飾されたものはほとんど見られず、鉄製の轡や鐙に木製の鞍という簡素なもので数も少ないものでした。馬具の数が多くなるのは古墳時代中期後半頃で、各地の古墳から出土するようになります。この頃の馬具は金具などの表面に鍍金を施して装飾されたものが多く、特に銅地に金を鍍金したものを金銅(こんどう)製品と呼びます。
 はじめの頃の金銅製品は朝鮮半島からの輸入品でしたが、古墳時代後期には日本国内で製作されるようになります。ただし国産の金銅製品は金を節約しているため鍍金の厚さや色調は輸入品に比べて劣るものでした。また、鉄製品に金銅製の板を貼り付けた鉄地(てつじ)金銅装(こんどうそう)製品なども作られ、合金のように混ぜ合わせるのではなく金属同士を組み合わせた製品も作られるようになります。

[鍍金]
 銅や青銅などの表面を金や銀で覆う技法を鍍金(めっき)と言います。日本に伝わった当初の鍍金の基本的な方法は、まず金や銀を水銀と混ぜて合金を作ります。この合金は水銀が液状の金属であることから、青銅のような合金とは異なり、粘土のような柔らかいものになります。次にこの合金を銅や青銅などの素材に塗り、350度ぐらいの温度で加熱すると、水銀が蒸発し金や銀が表面に残ります。この後は布などで磨いて仕上げます。また、一回では発色が不十分であるため、二回・三回と繰り返して製品を作ります。こうして繰り返すことによって金や銀の層が厚くなりより鮮やかな発色になります。


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 古墳時代後期の中頃に仏教伝来とともに、仏像や梵鐘などの大型品の鋳造技術をもった技術者も渡来しました。
『日本書紀』崇峻元年(588年)条にある飛鳥寺の造営に関する記述に、百済より寺工二人、鑢盤(ろばん)博士一人、瓦博士四人、画工一人が派遣されたとあり、このうち鑢盤博士が鋳造などの金属加工の技術者と考えられています。国内での本格的な造仏は『日本書記』推古十三年(605年)条にある造仏の発願で、翌年に完成した丈六の金銅仏が最初と考えられています。また、舎利(しゃり)容器(ようき)や押出仏などの仏具や飾り金具、蝶番(ちょうつがい)などの製品が作られ、特に金銅製品の需要があったようです。

〈銅の国産化と貨幣の生産〉
 「続日本紀」には慶雲五年(708年)一月に武蔵国で自然銅が産出し、献上された際に「和銅」と改元されたという記述があります。翌二月には「始置鑄錢司」とあり、役人が任命され銭が鋳造されるようになります。この時につくられたのが「和同開珎」であると考えられていますが、これ以前の持統八年(694年)の「拝鑄錢司」や文武三年(699年)の「始置鑄錢司」という役職の記述があることから、この頃には貨幣が鋳造されていたことが窺えます。近年、それを裏付けるように飛鳥池遺跡で「富本銭」やその鋳型などが見つかり、作られた
年代が7世紀末頃であることから、日本最古の貨幣であることがわかりました。しかし、出土点数が少ないことからどれほど流通していたかは明らかではありません。それに対して、和銅開珎は点数も多く、広範囲で出土していることや『続日本紀』に河内の鑄錢司(じゅせんし)を官属にするという記述や六升の穀物が錢一文にあたるという記述があることから、国が発行し流通させていたことがわかります。

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〈鉄器の生産のはじまり〉
 弥生時代を通して農耕具や武器類が石器から鉄器へと移り変わっていきますが、初期の鉄器は農耕具などの小型の製品で青銅器と同じく搬入だれ、数量も少ないものでした。日本国内で鉄器が生産されるのは青銅器よりもやや遅く、弥生時代中期後半頃と考えられており、この頃から出土量が増加し農耕具の他に剣や矛、鏃などの武器が作られています。鉄器は鋳造と鍛造の両方の技術で製品を作ることができますが、鉄は青銅よりも融点(ゆうてん)が高いため、鋳造よりも鍛造による生産が主流でした。鋳造に鋳型などが必要なように鍛造にも鍛冶工具が必要になります。主なものでは、鎚(つち)・鉄(かな)床(とこ)・タガネなどがありますが、弥生時代にはほとんどが石製の道具を使い、一部は鉄製の道具を使っていたと考えられています。また素材を手に入れることは難しいものだったようです。
 弥生時後期にはそれまで大量に作られ、使われていた石器の姿がほとんど見られなくなります。これは北部九州を主体に鍛冶技術が発達し、鉄器が急速に日本国内に普及していったためと考えられており、九州から関東地方あたりまでの広範囲で出土しています。この範囲の中でも北九州と瀬戸内地方が多く、近畿地方以東では量は少なくなることから、生産の中心は北部九州であったと考えられています。

〈花開く鉄器文化〉
 古墳時代になると鉄器の分布範囲は逆転し、近畿地方などで出土量が増大します。集落遺跡から出土する鉄器は弥生時代とさほど変わらないのですが、副葬品として古墳に埋納されるものが多くなり、その内容もそれまでの鎌や斧などの農耕具、剣や鏃などの武器に加え、短甲(たんこう)などの甲冑(かっちゅう)類がみられるようになります。特に甲冑類は小さな鉄板に加工し、綴じ合わせてつくられてり、弥生時代にはない新たな技術が用いられています。


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 古墳時代前期中頃以降、古墳へ鉄器を大量に埋納する例がみられるようになります。これは鉄器の生産体制と素材の供給体制が整っていたことを示すものと考えられており、中期には種類・量ともに前段階よりも多様化していることから鉄器の製作技術が進んだことが窺えます。このことを示すものとして、中期の古墳の副葬品に鉄製の鍛冶工具が加わることが挙げられます。弥生時代に鉄器の生産がはじまって以降つかわれてきた石製の工具から鉄製のものへと変わったことで、加工技術と生産効率が上がったものと考えられます。それを裏付けるようにこれまで革綴じで作られていた甲冑類が鋲留めによってつくられるようになります。革で綴じるとどうしても緩みや隙間ができますが、鋲で繋ぎとめることによって隙間なく綴じることができる反面、鋲を打つための孔を正確にあける必要があります。また素材の面では、鍛冶工具と同様に副葬されたので鉄鋌(てつてい)が挙げられます。これは板状に薄くのばした鉄で、多量に副葬されることからさまざまな鉄器の原料であり、また朝鮮半島でも多量に出土していることから搬入された原料ではないかと考えられています。

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 古墳時代後期には前方後円墳の規模が縮小されていき、円墳や方墳が増加し群集墳が形成され、古墳の数が増大します。これらの古墳には依然として武器や馬具、農耕具などの鉄器が副葬され、支配者層のものであった鉄器がより身近になり、各地での鉄器の生産体制が整ってきたことを示しているものと考えられます。このように鉄器が普及した背景には鍛冶技術の向上だけでなく、より安定した鉄の確保が可能になったことが考えられます。現在のところ、日本最古の製鉄炉は古墳時代後期後半頃のもので、広島・島根県など中国地方を中心に北九州~近畿地方にかけて分布することから、この頃には鉄の生産が行われ、各地で鉄器の生産量が増加したものと考えられます。

[製錬と精錬]
 どちらも「せいれん」と読みますが、字がことなるように意味も異なります。「製錬」は鉱石から金属を取り出すことを指し、「精錬」は金属から不純物を取り除くことを指します。鉄を例に挙げてみましょう。まず砂鉄や鉄鉱石を製錬することで鉄を抽出します。この時にできた鉄は不純物が多いため硬くてもろく、叩いて延ばすことができない反面、融(と)ける温度が低いため鋳造には適しています。この鉄を加熱して鍛錬していくと不純物が減少し、硬さと脆さがなくなっていきます。この工程が精錬であり、柔らかく粘性の強い鉄ができるため叩いて延ばすことが可能になります。



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 律令体制が成立していくなかで、寺院の造営や都城の建設など国家的な金属製品の需要に対応するために官営工房が営まれるようになります。その一つに奈良県明日香村の飛鳥池遺跡の工房跡が挙げられます。ここは飛鳥時代に営まれた工房で、鍛冶・鋳造・玉作・カラスの他、漆や木工の工人を一か所に集め、それぞれに多様な製品を大量生産していたことがわかっています。奈良時代に入ると鍛冶を行う鍛冶司(かじし)や武器の製作を行う造兵司(ぞうへいし)のような役所によって個別に管理・運営され、生産されていくようになります。

〈金・銀の利用〉
 『続日本紀』によると天平勝宝元年(749年)に陸奥国から貢金があり、それが東大寺大仏の鍍金の材料になったという記述からこの頃に金が採掘され、国内での供給・採算が始まったと考えられます。また、銀の採掘は金よりも古く『日本書紀』天武三年(674年)条の対馬で銀が産出したという記述や、同じく十二年(683年)条には銀銭の使用をやめ、銅銭を用いることを決めた記述があること、実際に7世紀の遺跡から無文銀錢が出土し、8世紀には和銅銀錢が作られていることからこの頃に国産素材による生産が始まったと考えられます。ではそれ以前はどのような状況だったのでしょうか?
 弥生時代から古墳時代前期には福岡県志賀島出土の「漢委(かんのわの)奴(なの)国王(こくおう)」銘の金印や山口県稗田地蔵堂跡出土金銅製蓋(がい)弓帽(きゅうぼう)、奈良県東大寺山古墳出土の金象嵌鉄剣などが見つかっていますが、これらは搬入品であり、この頃は日本国内では金銀製品は製作されていなかったと考えられます。このような象嵌製品や金銅製品が国内で作られ始めるのは古墳時代中期以降で、鉄製の馬具や鍛冶工具などの新しい文化・技術とともに象嵌や鍍金の技術が伝わったようです。ただし、国産の金銅製品は中国・朝鮮半島製のものに比べて厚さと色が劣っており、金を節約しているためと考えられます。仏教が伝来した古墳時代後期には、仏像や仏具を作る上でさらに金銅製品の需要が高まりました。
 

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[五色の金]
 日本では古くからよく使う金属を「五色の金」と呼んでいました。金は黄色にも似た輝きを持つことから黄金、銀は白くまばゆい輝きから白銀、銅は光沢のある赤い色から赤金、鉄は黒くにぶい光を放つことから黒金、鉛は青白い金属であることから青金と呼ばれていました。
 『万葉集』中の山上憶良の歌に
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に乃(し)かめやも」(巻第五 803)
とあり、その例が見られます。


◆本書の執筆にあたり下記の文献を主に参考にしました。
飛鳥資料館 1992『飛鳥の工房』
飛鳥資料館 2000『飛鳥池遺跡』
石野博信ほか編 1991『古墳時代の研究5 生産と流通Ⅱ』雄山閣
石野博信ほか編 1998『古墳時代の研究8 古墳Ⅱ 副葬品』雄山閣
大阪市立博物館 1994『金属の考古学』
大阪府立近つ飛鳥博物館 2010『鉄とヤマト王権邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ』
金関 恕・佐原 真編 1997『弥生文化の研究5 道具と技術』雄山閣
神崎 勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣
北九州市立考古博物館 1995『弥生の鉄文化とその世界 北九州の先進性を探る』
北九州市立考古博物館 1997『弥生の鋳物工房とその世界』
京都大学総合博物館 1997『王者の武装―5世紀の金工技術―』
小林行雄 1962『古代の技術』塙書房
佐々木 稔編著 2002『鉄と銅の生産の歴史古代から近世初頭にいたる』雄山閣
田中 琢・佐原 真編 2002『日本考古学事典』三省堂
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2003『古墳時代の馬との出会い 馬と馬具の考古学』
奈良文化財研究所編 2010『平城京事典』柊風舎
村上恭通 1998『倭人と鉄の考古学』青木書店

本書は平成25年度企画展の展示解説書です。
本展示は(財)桜井市文化財協会が主催し、桜井市教育委員会に御協力頂きました。
展示資料は会期中に一部陳列替を行うことがあります。
本書は(財)桜井市文化財協会武田雄志が執筆・編集しました。

 平成25年度 企画展パンフレット
 
『金属利用の歴史~桜井市内出土遺物から~』
発行年月日: 平成25年10月2日
編集発行  : 財団法人桜井市文化財協会
〒633-0074 奈良県桜井市芝58-2
桜井市立埋蔵文化財センター内
TEL(0744)42―6005
FAX(0744)42-1366
印刷  : 株式会社明新社
奈良市南京終町3丁目464番地

よみがえる旧石器時代
旧石器時代とは


わたしたち人類は、どこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対する人々のあくなき探究心から人類学や考古学などが発展してきた。人類の歴史は、300万年以上前にさかのぼる。このころから1万年前ごろまでが旧石器時代で、地球が寒暖をくりかえした氷河時代にあたる。直立二足歩行のヒト(人類)が打ち欠いただけの打製石器をおもに使い、火を利用してまわりの自然環境と調和しながら生活していた。


「史実」とは、歴史上の事実。
ということらしいが、書かれてあることと現実は違うようだ。

ラベル:パンフレット・チラシ 略してパンチラ。

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