2013年12月14日土曜日

なぞる

金属利用の歴史」という企画展のパンフレット(?)を誤字・脱字および画像不鮮明のまま載せてみることにした。(桜井市立埋蔵文化財センター)


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《はじめに》
 石器を最初に手にして以来、人々は様々な道具を用いてきました。その中でも金属製品を手にしてから人々の生活は一変したといえます。銅や鉄をはじめ、金・銀などの金属で様々なものが作られ、現代に生きる私たちもその恩恵を受けています。
 桜井市内の遺跡や古墳では、このように様々に利用された金属が出土遺物として数多く見つかっています。切る・削るために用いられたもの、儀礼・祭祀などに用いられるもの、身に着け装飾するものや貨幣など多岐にわたって金属製品がつくられ、中には精巧に作られたものも見つかっています。
 そこで今回は市内の各遺跡・古墳から出土した銅や鉄などの金属製品から金属利用の歴史について考えてみたいと思います。

《金属製品の生産》
 金属製品を作るには、大きく三つの作業が必要です。まず一つ目は「採鉱」と呼ばれ、山などに大きく穴をあけたり、奥深くまで坑道を掘ったりして原料となる鉱石を採る作業を行います。次に、こうして手に入れた鉱石を高温で熱し、不純物を除去して金属成分を抽出する作業を「製錬(せいれん)」(精錬?)と呼びます。最後に製錬によって得た金属を「加工(かこう)」して製品が出来上がります。
 金属の加工には加熱して、または加熱なしで、金槌などで叩いて薄く延ばし、それを組み合わせるなどして製品を仕上げる「鍛造(たんぞう)」と、金属を加熱し続けて融解し、液状になったものを型に注いで製品を作る「鋳造」があります。

《青銅器の生産のはじまり》
 日本の金属利用の歴史は、鉄や青銅が稲作文化とともに縄文時代晩期~弥生前期初頭に伝わったことが始まりとされています。初期の青銅器は、武器(剣・矛・戈(か))や鏡、釧(くしろ)、小銅鐸、鉇(やりがんな)などの朝鮮半島から搬入されたものを用いており、特に武器類は鋭い刃が付いたもので、実際に使われていたものもあるようです。日本列島での青銅器の生産は弥生時代前期後半~中期前半頃に始まったと考えられており、当時の日本では金属を精錬する技術はなく、板状や棒状の青銅素材を入手し、加工して製品を作っていました。合金である青銅は銅に比べて低い温度で融け、冷えて固まると銅よりも硬くなる性質から鋳造に適しており、弥生時代中期後半頃までは石製の鋳型を使っていました。

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 弥生時代中期中頃以降、北部九州から近畿・東海地方に至る各地で青銅器がつくられるようになり、製品が大型化していきます。製品が大型化するにつれて実用性が徐々に失われ、より祭祀的な製品が作られるようになります。特に銅鐸は、はじめは高さが15cmほどの小さく厚手であったものが、最終的には高さが130cmを超える大きく薄手のものへと変化しています。また、弥生時代後期頃には、それまで石で作られていた鋳型が、粘土を焼き固めて型枠を作る土製鋳型へと変わります。型枠の中に真土(まね)と呼ばれる細かな砂を敷き詰めて、そこに形や文様を彫って鋳造するものです。

 弥生時代後期の終わり頃になると、それまでの銅鐸を用いた祭祀が終焉を迎え、あるものは埋納されたままであったり、あるものは破壊されてしまったりと銅鐸に対する価値観が変化しています。遺跡から見つかる銅鐸の
破片のほとんどは一個体分に満たないことが多く、その他の破片は別の青銅器に作り替えられた可能性もあります。

[合金とは?]
 金属に別の金属などを合成することで得られる合金は①低い温度で溶/熔ける、②より硬くなる、③腐食に強くなる、という特性が挙げられます。合金には主成分となる金属の名を取って銅合金などと呼ばれます。また、銅合金は錫との合金では青銅、金では赤銅(しゃくどう)というように材料によって名前が変わります。白銅(はくどう)と青銅は同じ錫との合金ですが、錫の割合が少ないと赤茶色のいわゆる「銅」の色になり、青銅と呼ばれます。

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〈古墳時代の青銅器〉
 銅鐸祭祀の終焉によって銅鐸は作られなくなりますが、古墳時代に入っても依然として鏡や釧、鏃などは作られ続け、筒形銅器や鈴、柄頭などが新たに作られるようになります。また、鋳型で文様を鋳出すだけでなく、タガネなどで文様を彫る彫金、銅や青銅などの表面を金や銀の薄い金属の被膜で覆う鍍金(めっき)や革綴(かわと)じや鋲留(びょうど)めなどの組立技術や象嵌(ぞうがん)などの新しい技術が使われるようになります。
 古墳時代の青銅器は時代の変遷とともに製品にも変化が見られ、古墳時代前期では鏡が多く作られました。弥生時代中期に作られ始めた鏡は、当初直径10cm以下の小型品ばかりでしたが、この頃の鏡には直径が40cmを超える大型品や直径15cmほどの中型品、3cmにも満たない小型品まで多岐にわたって作られました。鏡の多くは古墳の副葬品として見つかりますが、特に古墳時代前期では一つの古墳に数十枚の鏡を副葬することがあり、権威の象徴として扱われていることが窺えます。

[同笵(どうはん)と踏み返し]
 鋳造の方法で「同笵」と「踏み返し」という技法があります。この二つはどちらも「同じものを複数個鋳造する」という点で共通しますが、同笵は一つの鋳型から複数の製品を鋳造する方法をいい、踏み返しは製品を原型にしてそれで粘土などに型抜きをして鋳型を作り鋳造する方法を呼びます。同笵は文様や大きさがほとんど同じ製品を鋳造することができる一方で、同じ鋳型を用いているため、型についた傷がそのまま製品に写しとられてしまいます。踏み返しは製品から型を作るためまったく同じ文様を写しとることができます。また、どちらの技法を用いても、繰り返し鋳造することによって文様が不鮮明になっていくという特徴があります。


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 古墳時代中期に朝鮮半島から乗馬の風習が伝わると、その装具として馬具が使われるようになります。この馬具には馬を制御するための轡(くつわ)や、騎手を安定させるための鞍や鐙(あぶみ)、馬を飾りたてるための杏(ぎょう)葉(よう)や馬鐸(ばたく)などがあります。初期の馬具は装飾されたものはほとんど見られず、鉄製の轡や鐙に木製の鞍という簡素なもので数も少ないものでした。馬具の数が多くなるのは古墳時代中期後半頃で、各地の古墳から出土するようになります。この頃の馬具は金具などの表面に鍍金を施して装飾されたものが多く、特に銅地に金を鍍金したものを金銅(こんどう)製品と呼びます。
 はじめの頃の金銅製品は朝鮮半島からの輸入品でしたが、古墳時代後期には日本国内で製作されるようになります。ただし国産の金銅製品は金を節約しているため鍍金の厚さや色調は輸入品に比べて劣るものでした。また、鉄製品に金銅製の板を貼り付けた鉄地(てつじ)金銅装(こんどうそう)製品なども作られ、合金のように混ぜ合わせるのではなく金属同士を組み合わせた製品も作られるようになります。

[鍍金]
 銅や青銅などの表面を金や銀で覆う技法を鍍金(めっき)と言います。日本に伝わった当初の鍍金の基本的な方法は、まず金や銀を水銀と混ぜて合金を作ります。この合金は水銀が液状の金属であることから、青銅のような合金とは異なり、粘土のような柔らかいものになります。次にこの合金を銅や青銅などの素材に塗り、350度ぐらいの温度で加熱すると、水銀が蒸発し金や銀が表面に残ります。この後は布などで磨いて仕上げます。また、一回では発色が不十分であるため、二回・三回と繰り返して製品を作ります。こうして繰り返すことによって金や銀の層が厚くなりより鮮やかな発色になります。


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 古墳時代後期の中頃に仏教伝来とともに、仏像や梵鐘などの大型品の鋳造技術をもった技術者も渡来しました。
『日本書紀』崇峻元年(588年)条にある飛鳥寺の造営に関する記述に、百済より寺工二人、鑢盤(ろばん)博士一人、瓦博士四人、画工一人が派遣されたとあり、このうち鑢盤博士が鋳造などの金属加工の技術者と考えられています。国内での本格的な造仏は『日本書記』推古十三年(605年)条にある造仏の発願で、翌年に完成した丈六の金銅仏が最初と考えられています。また、舎利(しゃり)容器(ようき)や押出仏などの仏具や飾り金具、蝶番(ちょうつがい)などの製品が作られ、特に金銅製品の需要があったようです。

〈銅の国産化と貨幣の生産〉
 「続日本紀」には慶雲五年(708年)一月に武蔵国で自然銅が産出し、献上された際に「和銅」と改元されたという記述があります。翌二月には「始置鑄錢司」とあり、役人が任命され銭が鋳造されるようになります。この時につくられたのが「和同開珎」であると考えられていますが、これ以前の持統八年(694年)の「拝鑄錢司」や文武三年(699年)の「始置鑄錢司」という役職の記述があることから、この頃には貨幣が鋳造されていたことが窺えます。近年、それを裏付けるように飛鳥池遺跡で「富本銭」やその鋳型などが見つかり、作られた
年代が7世紀末頃であることから、日本最古の貨幣であることがわかりました。しかし、出土点数が少ないことからどれほど流通していたかは明らかではありません。それに対して、和銅開珎は点数も多く、広範囲で出土していることや『続日本紀』に河内の鑄錢司(じゅせんし)を官属にするという記述や六升の穀物が錢一文にあたるという記述があることから、国が発行し流通させていたことがわかります。

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〈鉄器の生産のはじまり〉
 弥生時代を通して農耕具や武器類が石器から鉄器へと移り変わっていきますが、初期の鉄器は農耕具などの小型の製品で青銅器と同じく搬入だれ、数量も少ないものでした。日本国内で鉄器が生産されるのは青銅器よりもやや遅く、弥生時代中期後半頃と考えられており、この頃から出土量が増加し農耕具の他に剣や矛、鏃などの武器が作られています。鉄器は鋳造と鍛造の両方の技術で製品を作ることができますが、鉄は青銅よりも融点(ゆうてん)が高いため、鋳造よりも鍛造による生産が主流でした。鋳造に鋳型などが必要なように鍛造にも鍛冶工具が必要になります。主なものでは、鎚(つち)・鉄(かな)床(とこ)・タガネなどがありますが、弥生時代にはほとんどが石製の道具を使い、一部は鉄製の道具を使っていたと考えられています。また素材を手に入れることは難しいものだったようです。
 弥生時後期にはそれまで大量に作られ、使われていた石器の姿がほとんど見られなくなります。これは北部九州を主体に鍛冶技術が発達し、鉄器が急速に日本国内に普及していったためと考えられており、九州から関東地方あたりまでの広範囲で出土しています。この範囲の中でも北九州と瀬戸内地方が多く、近畿地方以東では量は少なくなることから、生産の中心は北部九州であったと考えられています。

〈花開く鉄器文化〉
 古墳時代になると鉄器の分布範囲は逆転し、近畿地方などで出土量が増大します。集落遺跡から出土する鉄器は弥生時代とさほど変わらないのですが、副葬品として古墳に埋納されるものが多くなり、その内容もそれまでの鎌や斧などの農耕具、剣や鏃などの武器に加え、短甲(たんこう)などの甲冑(かっちゅう)類がみられるようになります。特に甲冑類は小さな鉄板に加工し、綴じ合わせてつくられてり、弥生時代にはない新たな技術が用いられています。


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 古墳時代前期中頃以降、古墳へ鉄器を大量に埋納する例がみられるようになります。これは鉄器の生産体制と素材の供給体制が整っていたことを示すものと考えられており、中期には種類・量ともに前段階よりも多様化していることから鉄器の製作技術が進んだことが窺えます。このことを示すものとして、中期の古墳の副葬品に鉄製の鍛冶工具が加わることが挙げられます。弥生時代に鉄器の生産がはじまって以降つかわれてきた石製の工具から鉄製のものへと変わったことで、加工技術と生産効率が上がったものと考えられます。それを裏付けるようにこれまで革綴じで作られていた甲冑類が鋲留めによってつくられるようになります。革で綴じるとどうしても緩みや隙間ができますが、鋲で繋ぎとめることによって隙間なく綴じることができる反面、鋲を打つための孔を正確にあける必要があります。また素材の面では、鍛冶工具と同様に副葬されたので鉄鋌(てつてい)が挙げられます。これは板状に薄くのばした鉄で、多量に副葬されることからさまざまな鉄器の原料であり、また朝鮮半島でも多量に出土していることから搬入された原料ではないかと考えられています。

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 古墳時代後期には前方後円墳の規模が縮小されていき、円墳や方墳が増加し群集墳が形成され、古墳の数が増大します。これらの古墳には依然として武器や馬具、農耕具などの鉄器が副葬され、支配者層のものであった鉄器がより身近になり、各地での鉄器の生産体制が整ってきたことを示しているものと考えられます。このように鉄器が普及した背景には鍛冶技術の向上だけでなく、より安定した鉄の確保が可能になったことが考えられます。現在のところ、日本最古の製鉄炉は古墳時代後期後半頃のもので、広島・島根県など中国地方を中心に北九州~近畿地方にかけて分布することから、この頃には鉄の生産が行われ、各地で鉄器の生産量が増加したものと考えられます。

[製錬と精錬]
 どちらも「せいれん」と読みますが、字がことなるように意味も異なります。「製錬」は鉱石から金属を取り出すことを指し、「精錬」は金属から不純物を取り除くことを指します。鉄を例に挙げてみましょう。まず砂鉄や鉄鉱石を製錬することで鉄を抽出します。この時にできた鉄は不純物が多いため硬くてもろく、叩いて延ばすことができない反面、融(と)ける温度が低いため鋳造には適しています。この鉄を加熱して鍛錬していくと不純物が減少し、硬さと脆さがなくなっていきます。この工程が精錬であり、柔らかく粘性の強い鉄ができるため叩いて延ばすことが可能になります。



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 律令体制が成立していくなかで、寺院の造営や都城の建設など国家的な金属製品の需要に対応するために官営工房が営まれるようになります。その一つに奈良県明日香村の飛鳥池遺跡の工房跡が挙げられます。ここは飛鳥時代に営まれた工房で、鍛冶・鋳造・玉作・カラスの他、漆や木工の工人を一か所に集め、それぞれに多様な製品を大量生産していたことがわかっています。奈良時代に入ると鍛冶を行う鍛冶司(かじし)や武器の製作を行う造兵司(ぞうへいし)のような役所によって個別に管理・運営され、生産されていくようになります。

〈金・銀の利用〉
 『続日本紀』によると天平勝宝元年(749年)に陸奥国から貢金があり、それが東大寺大仏の鍍金の材料になったという記述からこの頃に金が採掘され、国内での供給・採算が始まったと考えられます。また、銀の採掘は金よりも古く『日本書紀』天武三年(674年)条の対馬で銀が産出したという記述や、同じく十二年(683年)条には銀銭の使用をやめ、銅銭を用いることを決めた記述があること、実際に7世紀の遺跡から無文銀錢が出土し、8世紀には和銅銀錢が作られていることからこの頃に国産素材による生産が始まったと考えられます。ではそれ以前はどのような状況だったのでしょうか?
 弥生時代から古墳時代前期には福岡県志賀島出土の「漢委(かんのわの)奴(なの)国王(こくおう)」銘の金印や山口県稗田地蔵堂跡出土金銅製蓋(がい)弓帽(きゅうぼう)、奈良県東大寺山古墳出土の金象嵌鉄剣などが見つかっていますが、これらは搬入品であり、この頃は日本国内では金銀製品は製作されていなかったと考えられます。このような象嵌製品や金銅製品が国内で作られ始めるのは古墳時代中期以降で、鉄製の馬具や鍛冶工具などの新しい文化・技術とともに象嵌や鍍金の技術が伝わったようです。ただし、国産の金銅製品は中国・朝鮮半島製のものに比べて厚さと色が劣っており、金を節約しているためと考えられます。仏教が伝来した古墳時代後期には、仏像や仏具を作る上でさらに金銅製品の需要が高まりました。
 

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[五色の金]
 日本では古くからよく使う金属を「五色の金」と呼んでいました。金は黄色にも似た輝きを持つことから黄金、銀は白くまばゆい輝きから白銀、銅は光沢のある赤い色から赤金、鉄は黒くにぶい光を放つことから黒金、鉛は青白い金属であることから青金と呼ばれていました。
 『万葉集』中の山上憶良の歌に
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に乃(し)かめやも」(巻第五 803)
とあり、その例が見られます。


◆本書の執筆にあたり下記の文献を主に参考にしました。
飛鳥資料館 1992『飛鳥の工房』
飛鳥資料館 2000『飛鳥池遺跡』
石野博信ほか編 1991『古墳時代の研究5 生産と流通Ⅱ』雄山閣
石野博信ほか編 1998『古墳時代の研究8 古墳Ⅱ 副葬品』雄山閣
大阪市立博物館 1994『金属の考古学』
大阪府立近つ飛鳥博物館 2010『鉄とヤマト王権邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ』
金関 恕・佐原 真編 1997『弥生文化の研究5 道具と技術』雄山閣
神崎 勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣
北九州市立考古博物館 1995『弥生の鉄文化とその世界 北九州の先進性を探る』
北九州市立考古博物館 1997『弥生の鋳物工房とその世界』
京都大学総合博物館 1997『王者の武装―5世紀の金工技術―』
小林行雄 1962『古代の技術』塙書房
佐々木 稔編著 2002『鉄と銅の生産の歴史古代から近世初頭にいたる』雄山閣
田中 琢・佐原 真編 2002『日本考古学事典』三省堂
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2003『古墳時代の馬との出会い 馬と馬具の考古学』
奈良文化財研究所編 2010『平城京事典』柊風舎
村上恭通 1998『倭人と鉄の考古学』青木書店

本書は平成25年度企画展の展示解説書です。
本展示は(財)桜井市文化財協会が主催し、桜井市教育委員会に御協力頂きました。
展示資料は会期中に一部陳列替を行うことがあります。
本書は(財)桜井市文化財協会武田雄志が執筆・編集しました。

 平成25年度 企画展パンフレット
 
『金属利用の歴史~桜井市内出土遺物から~』
発行年月日: 平成25年10月2日
編集発行  : 財団法人桜井市文化財協会
〒633-0074 奈良県桜井市芝58-2
桜井市立埋蔵文化財センター内
TEL(0744)42―6005
FAX(0744)42-1366
印刷  : 株式会社明新社
奈良市南京終町3丁目464番地

よみがえる旧石器時代
旧石器時代とは


わたしたち人類は、どこから来てどこへ行こうとしているのだろうか。この問いに対する人々のあくなき探究心から人類学や考古学などが発展してきた。人類の歴史は、300万年以上前にさかのぼる。このころから1万年前ごろまでが旧石器時代で、地球が寒暖をくりかえした氷河時代にあたる。直立二足歩行のヒト(人類)が打ち欠いただけの打製石器をおもに使い、火を利用してまわりの自然環境と調和しながら生活していた。


「史実」とは、歴史上の事実。
ということらしいが、書かれてあることと現実は違うようだ。

ラベル:パンフレット・チラシ 略してパンチラ。

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