2010年4月28日水曜日

通りから見て

寺の西側に当たる町の中ほどに「佐保旅館」はあった。通りから見てそこに看板がなかったら小さな門を持ったしもたやとしか思えない。通子は門をくぐり格子戸の開けてある玄関までの短い石だたみを踏んだ。
(中略)
ポストにハガキをすべりこませたとき、通子は犬の低い唸り声を聞いた。
この通りはふるい農家のままの土塀や板塀の家もあったが、二階家で間口のせまい家ならびがはさまっていた。階下が格子戸、二階が櫺子(れんじ)窓で、アズキ色に塗ったそれを長年かかって拭き上げ艶をだしたといったしもたやであった。軒灯と街灯のほかには格子戸の内側に橙色の明りがうすく映っている家もあった。奥でテレビを見ているらしく、人声と音楽が洩れていた。(火の路・松本清張より)

(語源由来辞典、goo辞典より)

(ならまち、イメージ)

2010年4月11日日曜日

バス路線

高須通子は、高畑町の裏通りから大仏前までぶらぶらと歩き、そこで自衛隊前行きのバスを待った。6時近くでもう夜の風景になっていたのだが、土産物店などのまぶしい灯りの下には修学旅行の生徒がまだ群れていた。言葉尻に強い訛りがある。土産物屋の大仏のタオルと鹿の角の箸を手に持った女生徒に聞いてみると熊本県の高校生だといった。引率の男と女の先生が軒の下から出て集合を叫んでいた。
定期バスの中は柔らかい関西訛りばかりだった。ゆっくりとした勾配の道を下りた近鉄奈良駅前と、次の高天町の停車で乗客が半分ぐらいになった。膝の上のスーツケースを座席に置いてもひろびろとしていた。
北に曲がって法華寺中町から西に折れた。これからはまっすぐな長い道である。付近に学校が多く、街灯だけが目立つ寂しい通りであった。踏切を渡ると暗い中に田畑がひろがった。地図にはこの辺が「佐保路」と出ている。
また町に出た。角を曲がってすぐが「法華寺前」の停留所だった。(火の路・松本清張より)

奈良交通バス路線図より 一部抜粋 



2010年4月9日金曜日

益田岩船

「先生。益田岩船はやっぱり謎ということでっか?」
店主が、黙って煙草ばかりふかしている佐田に気がねしたように問いかけた。
「ぼくにも分からんね」
佐田は手を伸ばして煙草の灰を叩き落とした。
「高須君」と彼はゆっくり呼びかけた。(火の路・松本清張より)
(yahoo地図より 赤丸は益田岩船)

(カシミールで作成)

2010年4月8日木曜日

ハイキングのつもりで

「それから何処かに回られましたか?」
野村が佐田の無愛想を気にして彼女に親切にたずねた。
「橘寺に行って・・・・・・」
「二面石ですね」
「ええ。でも、ほかの山にも上がってきましたの。ハイキングのつもりで」
「ほかの山って、どこですか?」
「あの近くです。山というほどでもない丘ですが。でも、わたくしにとってはちょっとした登山でしたの」
佐田が湯呑の糸じりを上がり框に鳴らして置いた。
「山登りって、どこですか?」
野村が高須通子にきいた。
「多武峰です」
彼女は答えてからも唇を少し開けていた。
「談山神社ですか。バスでしょう? 桜井へ出てバスを使えば境内下まで行けます」
佐田はカメラマンの流れる煙に当惑そうにしていたが、自分もポケットから煙草をとり出した。
店主が前から灰皿を引き寄せ、息子が横からライターを鳴らしてさし出した。
「足でも登りましたわ。今日は益田岩船のある山にいったんですから」
(火の路・松本清張より)

2010年4月4日日曜日

高畑

格子戸の家が多いのは奈良の旧い町なみの特徴だが、とりわけこのへんは悠長な荒廃が漂っていた。奈良の中心街から新薬師寺に行くにはこの町を通る。「高畑の道」と名づけて古都に懐旧的な人々は感傷に浸って歩く。
坂を上がって行く者の眼から見て、春日山の森が正面に屏風を立てたように塞いでいた。真すぐに進むと奥山になる。右が新薬師寺となる。(火の路・松本清張より)

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