2012年2月2日木曜日

不可解な記事


「古代史の秘密を握る人たち」から不可解を拾ってみた。
 
 藤原不比等は、乙巳の変(大化改新)で蘇我入鹿暗殺の主役になった中臣鎌足の子だから、抜擢されるのは当然のように思われてきた。しかし、どうにも不可解なのは、壬申の乱ののち王権を奪取した天武天皇は、中臣鎌足の子・不比等を政権から閉め出していて、夫の遺志を引き継いだとされる持統朝において、なぜ不比等が大抜擢されたのか、通説では説明がつかない、ということなのである。

 以後、しばらく混乱はつづいたようで、『日本書紀』は、継体天皇の二人の皇子が同時に死んだという不可解な記事を載せている。『百済本記』の記事からの引用で、それ以上のことは書いていないから、このとき何が起きたのかは定かではない。

 『日本書紀』には、もうひとつ不可解な記事がある。携帯二十五年春二月、継体天皇が崩御したが、じっさいには、継体天皇は二十八年に亡くなっていたと記録する異伝もあるという。

 ここで不可解なことが一つある。それは、大海人皇子が東国に逃れただけで近江朝は浮足立ち、多くの将兵が戦意を消失し散りじりになって逃げまどったというのだ。裸同然で逃げた大海人皇子に対し、近江は朝廷の正規軍を握っていたはずなのに、これはどうしたことだろう。

 しかし、どう考えてもこの事態は不可解なのだ。
 天武天皇が壬申の乱で雪崩のように勝利したのは、民衆と豪族の支持があってこそのことだった。であるならば、彼らを無視した政局運営は不可能だったろう。それにもかかわらず、皇族だけで朝廷を独占するかのような動きは何を意味していたのか、もう少し深く考える必要がある。

 聖武天皇の不可解な行動の中に、「三宝の奴」というものがある。天平勝宝元年(七四九)夏四月、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏(大仏)に「北面」して向かい、勅して次のように述べさせている。

 いったい、なぜこの親子は不可解な行動にでたのだろう。
 ここで考えられるのは、次の一点だ。すなわち、「藤原のための天皇」ならば天皇などという王権はないほうがまし、という発想が彼らにはあったのではなかったか。

 しかし、不可解なことがある。
 出雲大社の特殊神事に「身逃げの神事」があって、この中で、大国主神の御魂になりかわって、禰宜が「夜逃げ」をするまねごとをしている。

 不可解なのは、ここで天皇家が隼人たちと結びついている理由がはっきりと分からない、ということなのだ。

 不可解なのは、法隆寺が「祟る寺」、聖徳太子が「祟る鬼」とすると、藤原四兄弟の死とどうつながるのか、さっぱり分からないことなのだ。

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