2012年3月30日金曜日

妹背山の芝居

人形浄瑠璃『妹背山婦女庭訓/いもせやまおんなていきん』及び、その歌舞伎化されたものを言う。
近末判二ら五人の合作。一七七一年初演。諜反を起こした蘇我入鹿を藤原鎌足が討ち滅ぼすまでを中心的なストーリーとするが、その三段目「大宰館」と「山の段」は、吉野川を隔てて敵対する大判事清澄・久我之助父子(紀伊の国領主で背山に仮屋を構える)と、大宰少弐(だざいのしょうに)の後室定高(さだか)・雛鳥母子(大和の国の領主で妹山に仮屋を構える)の物語になっている。久我之助と雛鳥は秘かに恋し合う仲だったが、両家の不和と中を隔てる川が障害となっていた。そこへ清澄は入鹿から久我之助を出仕させよと言われ、天皇への忠義のために久我之助を切腹させる。一方、定高は入鹿から雛鳥を入鹿の後宮に入内(じゅだい)させよと命じられ、久我之助に操を立てて自害した雛鳥の首を切り落とす。これを機に清澄と定高は和解し、雛鳥の首を瀕死(ひんし)の久我之助の許に嫁入らせる。なお、『妹背山婦女庭訓』では、吉野川が大和と紀伊の国境をなすように描いているが、実際はそうではない。(新潮文庫 吉野葛 谷崎潤一郎)注解より

国立文楽劇場 2010年4月公演より

2012年3月25日日曜日

延喜式 主計上より

中男作物
伊賀國 紅花
伊勢國 紅花
尾張國 紅花
参河國 紅花
駿河國 紅花
甲斐國 紅花
相模國 紅花
武蔵國 紅花
安房國 紅花
上總國 紅花
下總國 紅花
常陸國 紅花
信濃國 紅花
上野國 紅花
下野國 紅花
越前國 紅花 黑葛
加賀國 紅花
越中國 紅花
丹波國    黑葛
丹後國    黑葛
因幡國 紅花 黑葛
伯耆國 紅花
石見國 紅花
播磨國    黑葛
美作國    黑葛
備後國 紅花 黑葛
安藝國 紅花 黑葛
紀伊國 紅花
肥後國    黑葛
豐前國    黑葛
豐後國    黑葛

2012年3月23日金曜日

奈良・吉野川

たぶん30年ぐらい前の記憶では、エメラルド・グリーンの水量のある川だった。

図書館を出てからT字路で、一旦停車中にタバコの火を落としてしまった。
タバコの火による穴
国栖・窪垣内
登校路の途中にある谷崎潤一郎の記念碑
 どれが妹山・・・? どれが背山か分からないけど・・・。
妹背山
吉野駅から上市方向・現六田駅

2012年3月21日水曜日

自問自答

昼食は何にする・・・?
一つ選びなさい。

娘:おかぁちゃん、変なおっちゃんがこちらを見ているヨ。
母:ほっときなさい、火焔土器を造るのは難しいんだから・・・。



葛を精製する工程の中に『吉野晒し(よしのざらし)』というものがある。
この晒しの技術が、縄文時代から吉野の地に受け継がれていたものと思っていたがそうではないらしい。(平安時代?)


本日、一歩踏み出せるかと思いきや意気消沈。
(自宅にて)

もう、帰ろう。

2012年3月18日日曜日

たぶん・・・?

朝、目覚める前に「たぶん・・・?」と思って起きる。


池上曽根遺跡にある立柱は、正中線上に並び、南中時には南の柱から北の柱に向かい寄り添うように影が伸びます。また、春分・秋分には池上曽根の神南備山である信太山からさす朝日によって、北の柱の影が刳り抜き井戸に落ちます。(史跡公園パンフレット vol.2より)

環状列石については分からないけど、縄文土器の文様についてたぶん「・・・」かも知れない。

2012年3月17日土曜日

スタンプ

『吉野葛』の中で、「信太の森・葛の葉」というのが気になった。


 和泉市と吉野、なんの関係があるんだろう・・・?

スタンプを貯める・・・?

2012年3月16日金曜日

吉野葛


奈良を立ったのが早かったので、われわれは午(ひる)少し過ぎに上市の町に這入った。街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像した通り、いかにも素朴で古風である。ところどころ、川べりの方の家並(やな)みが欠けて片側町になっているけれど、大部分は水の眺めを塞(ふさ)いで、黒い煤(すす)けた格子(こうし)造りの、天井裏のような低い二階のある家が両側に詰っている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗(のぞ)いて見ると、田舎家にはお定まりの、裏口まで土間の入り口に、屋号や姓名を白く染め抜いた紺の暖簾(のれん)を吊(つ)っているのが多い。店屋(みせや)ばかりでなく、しもうたやでもそうするのが普通であるらしい。孰(いず)れも表の構えは押し潰(つぶ)したように軒が垂れ、間口(まぐち)が狭いが、暖簾の向うに中庭の樹立(こだ)ちがちらついて、離れ家なぞのあるものも見える。恐らくこの辺の家は、五十年以上、中には百年二百年もたっているのがあろう。が、建物の古い割りに、何処の家でも障子の紙が皆新しい。今貼(は)りかえたばかりのような汚れ目のないのが貼ってあって、ちょっとした小さな破れ目も花弁型の紙で丹念に塞いである。それが澄み切った秋の空気の中に、冷え冷えと白い。一つは埃(ほこり)立たないので、こんな清潔なのであろうが、一つはガラス障子を使わない結果、紙に対して都会人よりも神経質なのであろう。東京あたりの家のように、紙が汚れて暗かったり、穴から風が吹き込んだりしては、捨てて置けない訳である。兎(と)に角(かく)その障子の色のすがすがしさは、軒並みの格子や建具(たてぐ)の煤ぼけたのを、貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚(せいそ)で品よく見せている。私はその紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなあと云う感を深くした。
実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながら眼を刺す程でなく、身に沁みるように美しい。日は川の方へ廻っていて、町の左側の障子に映えているのでが、その照り返しが右側の方へ家々の中まで届いている。
八百屋の店先に並べてある柿(かき)が殊に綺麗(きれい)であった。キザ柿、御所柿(ごしょがき)、美濃柿、いろいろな形の柿の粒が、一つ一つ戸外の明りをそのつやつやと熟し切った珊瑚(さんご)色の表面に受け止めて、瞳(ひとみ)のように光っている。饂飩(うどん)屋のガラスの箱の中にある饂飩の玉までがさわやかである。往来には軒先に莚(むしろ)を敷いたり、箕(み)を置いたりして、それに消炭が乾してある。何処かで鍛冶(かじ)屋の槌(つち)の音と精米機のサアサア云う音が聞こえる。
私たちは町はずれまで歩いて、とある食い物屋の川沿いの座敷で昼食を取った。妹背の山は、あの橋の上で眺めた時はもっとずっと上流にあるように思えたが、ここへ来るとつい眼の前に立つ二つの丘であった。川を隔てて、此方(こちら)の岸の方のが妹山、向うの方が背山、──妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)の作者は、恐らく此処(ここ)の実景に接してあの構想を得たのだろうが、まだこの辺の川幅は、芝居で見るよりも余裕があって、あれ程迫った渓流ではない。仮に両方の丘に久我之助の楼閣と雛鳥の楼閣があったとしても、あんな風に互に呼吸することは出来なかったろう。背山の方は、屋根がうしろの峰につづいて、形が整っていないけれども、妹山の方は全く独立した一つの円錐(えんすい)状の丘が、こんもりと緑葉樹の衣(ころも)を着ている。上市の町はその丘の下までつづいている。川の方から見わたすと、家の裏側が、二階は三階に、平屋(
ひらや)は二階になっている。中には階上から川底へ針金の架線を渡し、それへバケツを通して、綱でスルスルを水を汲(く)み上げるようにしたのもある。 (新潮文庫 吉野葛 谷崎潤一郎)より

まだ読みかけの途中であるが、『・・・?』についてのメモ。

 素朴で古風 清潔で神経質 すがすがしさ 貧しいながら身だしなみのよい美女 清楚で品よく 身に沁みるように美しい 殊に綺麗 珊瑚色 


2012年3月2日金曜日

不易流行と笛木優子

 不易流行
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧しょうふうはいかいの理念の一つ。解釈には諸説ある。▽「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。  goo辞書より


NHK あさイチ 「JAPAなび    桜だけじゃない!奈良・吉野」 12年03月01日放送を観た。
吉野という響きに反応して、誰か知らない女性が写っていたので観てしまった。

 本格的な植物染に挑戦② ~「紅花」で染める~ 12年02月28日放送

紅花はエチオピアからエジプトあたりが原産とされ、中国を経て三世紀初めには日本に入ったと考えられているらしい。

纏向遺跡と紅花
 ETV特集 シリーズ日本と朝鮮半島2000年 第1回 古代 人々は海峡を越えた
09年04月27日放送  (TV小僧より)

本日、ベニバナ花粉が検出された李田地区を確認しに出かけたが(?)であった。
赤丸9はどこか分からないけど・・・?

 昼食時のテーブル。

本日の月ヶ瀬。


 熟した梅の実を燻して作る「烏梅(うばい)」。紅花染めにとって色素を定着させ、鮮やかに発色させる媒染剤として欠かせない。奈良市月ヶ瀬の中西氏が日本でただ一人、その技術と文化を継承している。 (うたびとの歳時記・JR西日本より)

伊賀地区で紅花栽培を復活した近く。

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