2014年4月1日火曜日

四月 ウマ・シカ

3月22日。
約43.7キロ。
国史跡
唐古・鍵遺跡
所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び鍵
時代:弥生時代~古墳時代  遺跡面積:約42万㎡
国指定:平成11(1999)年1月27日 指定面積:約102,615㎡

遺跡のあらまし
 唐古・鍵遺跡には、奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に立地する弥生時代の集落遺跡です。標高47~49mの水田の下約0.5mに弥生時代の遺物包含層があり、弥生時代前期から古墳時代前期にいたる集落関係の遺構・遺物が良好な状態で保存されています。
 この遺跡は、明治34(1901)年に初めて考古学会に紹介されましたが、最も注目されたのは昭和11・12(1936・1937)年の末永雅雄博士らによる唐古池の発掘調査(第1次)です。この調査は、遺跡内を縦断するように国道24号線が建設されるのに伴い、唐古池底の土砂を採掘したことに始まります。この工事と並行して発掘調査がおこなわれ、弥生時代が農耕社会であることを証明する木製農具や炭化米などが出土しました。また、これらとともに出土した土器を基に、弥生時代の時期区分を示す編年(土器の変遷)の枠組みが作られ、弥生時代研究の基礎となりました。
 その後、昭和52(1977)年から発掘調査が再開(第3次)され、平成25(2013)年には第113次まで調査がおこなわれています。この間、大型建物跡(第74・93次)や青銅器鋳造の炉跡(第65次)、楼閣絵画土器(第47次)、青銅器鋳造関連遺物(第3・61次ほか)、褐鉄鉱容器とヒスイ製勾玉(第80次)などの重要な遺構・遺物が発掘さらました。これらの調査成果から唐古・鍵遺跡は単なる農耕集落でなく、物流センター的な機能も持ちあわせた奈良盆地の拠点的な集落であることが判明しました。
 このように、唐古・鍵遺跡は弥生研究の上で学史的に重要で、かつ、弥生時代の社会や生活文化を知る上で極めて貴重な遺跡として、国の史跡に指定されました。

集落の構造と周辺の弥生遺跡
 唐古・鍵遺跡は、集落のまわりを大溝で囲む「環濠集落」です。居住区の1番内側を囲む大環濠の規模は、幅8~10m、深さ2mで、直径400mの範囲を囲みます。この大環濠の外側約100~150mには、環濠により、水害や外敵から集落を守っていたほか、普段は運河としての役目を果たしていたようです。
 居住区には、高床建物や竪穴住居、井戸、木器を貯蔵する穴などさまざまな遺構がみつかっています。
 また、唐古・鍵遺跡の周囲1km以内には、衛星集落や墓地が存在します。遺跡の北側600mには絵画土器が多量に出土した清水風遺跡、東側400mでは方形周溝墓がみつかった法貴寺遺跡、南側1kmには羽子田遺跡や阪手東遺跡、西側600mには八尾九原遺跡などの小集落や墓地が存在し、唐古・鍵遺跡群を形成しています。

さまざまな生産活動と交流
 唐古・鍵遺跡の人々は、さまざまな道具を製作しています。石鏃や石剣などは二上山北麗のサヌカイトを、稲穂を摘み取る石包丁は耳成山の流紋岩や紀ノ川流域の結晶片岩の原石をムラに運び込んで製作しました。
 環濠や穴からは、水浸けされた製作途中の木製品がよく出土します。これはケヤキやカシなどの木材を加工しやすくするためのものです。
 ムラの東南部では、青銅器の鋳造がおこなわれました。銅鐸(どうたく)や銅戈(どうか)、銅鏃(どうぞく)の鋳型(いがた)、送風管、とりべなど鋳造に使う道具類や炉跡がみつかっています。
 また、遺跡からは、河内や伊勢湾沿岸地域、遠くは岡山県南部や天竜川流域の土器が出土しています。さまざまな生産活動を通して、これらの地域と交流していたのでしょう。このように唐古・鍵遺跡跡は、物資流通の中心的な役割を果たしており、近畿地方の中核的な集落といえるでしょう。(表示内容)


これより先、天の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と地主神・倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神を皇居の内に祀った。しかし、天皇は二神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大國魂神を渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に祀らせた・・・
 いま、天照大神は伊勢神宮に、日本大國魂神は大和(おおやまと)神社に鎮座される。

 四月一日は、大和神社よりここお旅所(大和稚宮/わかみや神社)まで神輿渡御が行われます。
 「祭り初めは ちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り」大和の俚謡(りよう)に歌われる大和の代表的な祭りです。
 ”チャンチャン”と鉦鼓(しょうこ)が大和に春を告げます。
(表示内容)

画像下の部分が読み取れないので、3月28日に出かける。

3月28日。
約50.3キロ。
 大和王権の創始者たちは奈良盆地の東南部に宮殿を構え国家建設を進めた。丸邇坂(わにさか)①では王権軍が反乱軍を制圧するため北進する途中、戦勝の祈願をした(崇神/すじん記・紀)。王たちは死後、いまも残る巨大な墓に葬られた⑪⑫(崇神/すじん記・紀、成務/せいむ紀)。 国を守る神々も登場する。宮殿に祀られていた日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と天照大神(あまてらすおおかみ)が強力すぎる威力のために、別の地に写し祀(まつ)られた⑧⑬(崇神紀)。最古の神社のひとつで神剣を主神とする石上神宮(いそのかみじんぐう)⑤には皇子が千本の剣を奉納している(垂仁/すいにん記・紀)。当社は有力者たちが武器や宝を奉納する特異な神社だったと考えられる。 貴族の悲哀の物語も記されている。豪族・物部(もののべ)氏の娘の影媛は恋人・平群鮪(へぐりのしび)の死を知り、この道を布留(ふる)⑥を通り平城山(ならやま)まで駆けたという(武烈/ぶれつ即位前記)。

古事記
712年に編纂された日本最古の歴史書。稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた神代から推古天皇までの歴史や神話、歌謡をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集した。崇神(すじん)天皇の陵墓「山邊道勾岡上陵(やまのへのまがりのおかのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。

日本書記
720年に国家事業として編纂された日本最初の正史(せいし)。神代から持統天皇までの歴史で、朝廷や寺院または朝鮮や中国に伝わる様々な資料がもとになっている。崇神天皇の「山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。

万葉集
8世紀奈良時代に編纂された日本最初の歌集。約4500首は貴族や兵士、民衆など多彩な人々の歌で構成されている。登場する奈良県内の地名はのべ約900におよび、山の辺の道沿いには多くの万葉歌碑が建つ。後世に歌聖といわれ神格化された飛鳥時代を代表する宮廷歌人・柿本人麻呂は、天理市北部の櫟本(いちのもと)付近の出身といわれている。
(表示内容)

藤原宮跡は、六九四年から七一〇年まで日本の首都であった藤原京の中枢をなす宮殿の遺跡。約一キロメートル四方の規模の藤原宮には、天皇が居住する内裏(だいり)、政事と儀式の場である大極殿院(だいごくでんいん)・朝堂院(ちょうどういん)のほか、様々な役所が立ち並んでいた。(表示内容) 

自転車購入ができないので、サドルだけを新調した。

「尻が痛い!!」

慣らしにどれぐらいかかるのだろう・・・?

「慣らし」の変換は「奈良市」って・・・?

4月1日から消費税が8%。 なんか政治家に騙されているような気がする・・・?

チャリンコ漕いで、二酸化炭素の排出を抑えているのに・・・?

チャリンコ購入助成金って、なぜないのだろう・・・?

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