問題は、中期と後期、晩期とのあいだにもう一度大きな文化変容があったか、ということである。土器の形式には、あきらかに力強さから繊細さへ、という変化がみられる。最晩期の青森県大洞式の磨製注口土器、細口壺などの形、文様の優美さは、そのままこんにちの一流の茶会の席に使えそうである。
縄文中期(上)から後期(下)の土器の形式には、力強さから繊細さへと移行してゆく変化がみとめられる。
上─勝坂式様式・深鉢(東京都中原遺跡)・縄文中期・高37.5㎝・都立第二商業高等学校蔵
下─大洞式様式・注口土器(青森県是川遺跡)・縄文晩期・高11.6㎝・八戸市教育委員会蔵
(本文より)
2011年5月27日金曜日
気候変化と文化の型
いずれにしても、こういう気候変化に敏感に反応するのが、生物相──とりわけ動物相ある。なかでもいちばん敏感なのが回遊魚だ。毎年河川を上がってきた大量の鮭鱒類が上がってこなくなる。気候変化によって、毎年きまった時期に内湾へ産卵におしよせてくる魚がこなくなる。また山林の動物群も移動する。そして、ついには植物相や林相も変化しはじめる・・・・・・。当然、ある気候条件下における、あるひと組の生物相に適応した、生産、生活文化形態をくみ上げていた人間も影響をうけるだろう。ついに、新しいタイプの動、植物相の交替、進出にともなって、その環境に適応していた一群の「文化」が交替、進出してくることは当然考えられていい。
(中略)
南方系の原始農業である焼畑も、この時期にはじまったろう。(本文より)
(中略)
南方系の原始農業である焼畑も、この時期にはじまったろう。(本文より)
2011年5月26日木曜日
南方優越時代
ところが、前期と中期では、あきらかに文化の「型」の交替がある。それまで貧弱だった南方方の文化が、中部、関東を経て、東北、北海道へまで拡大しはじめる。このふたつの異なるタイプの「縄文文化」のオーヴァーラップする中部地方東部、関東西部地区には、伊豆諸島までおおう「縄文文化黄金時代」といわれる力強い勝坂式土器文化圏が成立した。(本文より)
縄文海進で検索
縄文海進(じょうもんかいしん)(別名「有楽町海進」、「完新世海進」、「後氷期海進」)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より3~5メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。この海水面の上昇は約19000年前から始まった。 世界的には海面は年間1-2cmの速度で上昇し、場所によっては上昇は100mに達した。しかしこの現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、氷床のあった北欧などでは見られない。厚さ数千㍍に及んだ氷床が解けた重みがなくなって海面上昇速度以上に陸地が隆起したからである。その典型がノルウェーのフィヨルド地形である。縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。
この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的に温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。しかし、日射量のピークは9000年前であり、7000年前の海進と異なる。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例としてしばしば取り上げられている。 (縄文海進 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)
勝坂式土器で検索
相模原の歴史シリーズ 相模原の旧石器時代・縄文時代(http://www.rekishi.sagami.in/yayoi.htmlより一部転載)
縄文海進で検索
縄文海進(じょうもんかいしん)(別名「有楽町海進」、「完新世海進」、「後氷期海進」)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より3~5メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。この海水面の上昇は約19000年前から始まった。 世界的には海面は年間1-2cmの速度で上昇し、場所によっては上昇は100mに達した。しかしこの現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、氷床のあった北欧などでは見られない。厚さ数千㍍に及んだ氷床が解けた重みがなくなって海面上昇速度以上に陸地が隆起したからである。その典型がノルウェーのフィヨルド地形である。縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。
この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的に温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。しかし、日射量のピークは9000年前であり、7000年前の海進と異なる。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例としてしばしば取り上げられている。 (縄文海進 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)
勝坂式土器で検索
相模原の歴史シリーズ 相模原の旧石器時代・縄文時代(http://www.rekishi.sagami.in/yayoi.htmlより一部転載)
2011年5月21日土曜日
前期縄文文化
ただ、ひとくちに縄文式文化といっても、ふたつのことが注意されなければなるまい。
ひとつは、最初期の土器があらわれる以前、ヴルム氷河期から、日本列島の、とくに北方では、かなり濃密に、人が、住んでいたということである。もうひとつ、日本の縄文土器が、きわめて豊富に出土し、しかも様式的な変換があざやかにたどれ、編年密度も高いため、ついひとくくり「縄文時代」と考えてしまいがちだが、これはこれで、九千年前から二千年前までの、じつに七千年という膨大な期間をふくむのである(日本のもっとも古い縄文土器は、現在、世界で発見されている最古の土器である)。七千年という長い年月のあいだに、「土器をつくる」という技術はなるほど連綿とうけつがれたが、人間集団の系統は交替したかもしれない。すくなくとも、生産、生活様式をふくめた「文化」はかわったであろう。
現在、かなり明確に認められている「文化」の変化、あるいは交替は、縄文前期と中期の文化様式の交替である。
簡単にいうと、前期縄文文化は、それ以前から、北海道、東北を中心にしていた北方ユーラシア森林文化と共通する文化圏が、関東、中部地方にまで大きくはりだした時期だった。これに対して、この時期の近畿以西、南西方面の縄文文化は、きわめて貧弱なものだった。北方ユーラシア森林文化は、狩猟と漁撈、さらに骨格器の発達を特徴としているが、早期から前期へかけての縄文文化には、あきらかに、この北方ユーラシア型と共通のものが認められるという。また、最近では、日本に入ってきた麦の性質をしらべて、あきらかに、きわめて早い時期に、ユーラシアの北方を進んできた種類が、サハリン、北海道を経て、東北地方へ入ってきた形跡がある、といわれはじめている。縄文早、前期、つまり紀元前七〇〇〇年から五〇〇〇年への時期にかけて、日本列島では「文化は北方より」という現象があったのである。(本文より)
「北方ユーラシア森林文化」と「日本に入ってきた麦の性質をしらべて」をネットで検索したが、ヒットなし。
ひとつは、最初期の土器があらわれる以前、ヴルム氷河期から、日本列島の、とくに北方では、かなり濃密に、人が、住んでいたということである。もうひとつ、日本の縄文土器が、きわめて豊富に出土し、しかも様式的な変換があざやかにたどれ、編年密度も高いため、ついひとくくり「縄文時代」と考えてしまいがちだが、これはこれで、九千年前から二千年前までの、じつに七千年という膨大な期間をふくむのである(日本のもっとも古い縄文土器は、現在、世界で発見されている最古の土器である)。七千年という長い年月のあいだに、「土器をつくる」という技術はなるほど連綿とうけつがれたが、人間集団の系統は交替したかもしれない。すくなくとも、生産、生活様式をふくめた「文化」はかわったであろう。
現在、かなり明確に認められている「文化」の変化、あるいは交替は、縄文前期と中期の文化様式の交替である。
簡単にいうと、前期縄文文化は、それ以前から、北海道、東北を中心にしていた北方ユーラシア森林文化と共通する文化圏が、関東、中部地方にまで大きくはりだした時期だった。これに対して、この時期の近畿以西、南西方面の縄文文化は、きわめて貧弱なものだった。北方ユーラシア森林文化は、狩猟と漁撈、さらに骨格器の発達を特徴としているが、早期から前期へかけての縄文文化には、あきらかに、この北方ユーラシア型と共通のものが認められるという。また、最近では、日本に入ってきた麦の性質をしらべて、あきらかに、きわめて早い時期に、ユーラシアの北方を進んできた種類が、サハリン、北海道を経て、東北地方へ入ってきた形跡がある、といわれはじめている。縄文早、前期、つまり紀元前七〇〇〇年から五〇〇〇年への時期にかけて、日本列島では「文化は北方より」という現象があったのである。(本文より)
「北方ユーラシア森林文化」と「日本に入ってきた麦の性質をしらべて」をネットで検索したが、ヒットなし。
2011年5月19日木曜日
2011年5月17日火曜日
目次より
日本文化の死角 (小松左京 講談社現代新書)
Ⅰ-稲作渡来と大陸の政変
1-縄文文化の風景
原日本人
前期縄文文化
南方優越時代
気候変化と文化の型
稲作の渡来
2-モデルとしての台湾
風土
歴史の「階層」
高度な技術集団の移住
正統中国への固執
タイム・ミラーとしての台湾
3-″稲作渡来事変"の幻想
なぜ日本に先に渡来したのか
大陸の政治的インパクト
大陸からの落人
移住の動機
大陸の動乱
Ⅱ-さまざまな宗教の痕跡
1-習俗への風化
キリスト東北渡来説
秦氏の謎
秦とアラブ
「ダッタンの妙法」
ゾロアスター教とは何か
拝火教の広がり
シルク・ロードが運んだもの
2-アラブ・中国・日本
中国の祆教
唐文化のなかのアラブ
景教とイスラム教
正倉院にのこされたもの
3-樹上葬の謎
「さか吊り幽霊」
盂蘭盆会の起源
祖霊を祭る
樹上葬の習慣
習俗としてのさか吊り
Ⅲ-日本文化の選択原理
1-根づかなかった文化
拒絶か消化か
イスラム教の痕跡
宦官の欠落
文化としての去勢技術
主体的選択
2-大和文化の伝統
馬車文化
なぜ馬車が入らなかったか
同姓不婚のタブー
大和流の改造
Ⅳ-「日本語」の由来
1-民族と言語
「人種」・「国民」・「民族」
「人種」の先天性、「国民」の人為姓
文化をつくる言語
単一民族言語
標準語と方言──言葉のアイデンティティ
何が言語をかえてゆくのか
2-日本語の成立過程
日本語の位置づけ
言葉のファミリィをしらべる
中国語から借用
アルタイ語族
アルタイ語族の共通項
「母音調和」の消失
注目すべき「南島語起源説」
Ⅴ-民族と文化
1-民族性とは何か
日本人は残虐か
民族のくせ
好戦的日本人像
すくない対外戦争体験
外へ押し出し、島へ逃げこむ
防衛意識の不在
2-異質文化の発見
「民草」と「小羊」
遊牧の起源
遊牧技術
イネ文化と乳文化
植物文化と動物文化
遊牧社会の天敵
移動と安住
Ⅵ-異なる文化の衝突
1-遊牧文化とは何か
牧畜社会の特徴
文化の相互浸透
農耕社会の構造
ピラミッド型ヒエラルキイ
皆兵社会
2-文化の衝突
ダニとモニ
異なる戦争文化の悲劇
モンゴルの破壊
異質文化強制の結末
対立と共存
地球文明人へ
Ⅰ-稲作渡来と大陸の政変
1-縄文文化の風景
原日本人
前期縄文文化
南方優越時代
気候変化と文化の型
稲作の渡来
2-モデルとしての台湾
風土
歴史の「階層」
高度な技術集団の移住
正統中国への固執
タイム・ミラーとしての台湾
3-″稲作渡来事変"の幻想
なぜ日本に先に渡来したのか
大陸の政治的インパクト
大陸からの落人
移住の動機
大陸の動乱
Ⅱ-さまざまな宗教の痕跡
1-習俗への風化
キリスト東北渡来説
秦氏の謎
秦とアラブ
「ダッタンの妙法」
ゾロアスター教とは何か
拝火教の広がり
シルク・ロードが運んだもの
2-アラブ・中国・日本
中国の祆教
唐文化のなかのアラブ
景教とイスラム教
正倉院にのこされたもの
3-樹上葬の謎
「さか吊り幽霊」
盂蘭盆会の起源
祖霊を祭る
樹上葬の習慣
習俗としてのさか吊り
Ⅲ-日本文化の選択原理
1-根づかなかった文化
拒絶か消化か
イスラム教の痕跡
宦官の欠落
文化としての去勢技術
主体的選択
2-大和文化の伝統
馬車文化
なぜ馬車が入らなかったか
同姓不婚のタブー
大和流の改造
Ⅳ-「日本語」の由来
1-民族と言語
「人種」・「国民」・「民族」
「人種」の先天性、「国民」の人為姓
文化をつくる言語
単一民族言語
標準語と方言──言葉のアイデンティティ
何が言語をかえてゆくのか
2-日本語の成立過程
日本語の位置づけ
言葉のファミリィをしらべる
中国語から借用
アルタイ語族
アルタイ語族の共通項
「母音調和」の消失
注目すべき「南島語起源説」
Ⅴ-民族と文化
1-民族性とは何か
日本人は残虐か
民族のくせ
好戦的日本人像
すくない対外戦争体験
外へ押し出し、島へ逃げこむ
防衛意識の不在
2-異質文化の発見
「民草」と「小羊」
遊牧の起源
遊牧技術
イネ文化と乳文化
植物文化と動物文化
遊牧社会の天敵
移動と安住
Ⅵ-異なる文化の衝突
1-遊牧文化とは何か
牧畜社会の特徴
文化の相互浸透
農耕社会の構造
ピラミッド型ヒエラルキイ
皆兵社会
2-文化の衝突
ダニとモニ
異なる戦争文化の悲劇
モンゴルの破壊
異質文化強制の結末
対立と共存
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