2011年5月21日土曜日

前期縄文文化

 ただ、ひとくちに縄文式文化といっても、ふたつのことが注意されなければなるまい。
ひとつは、最初期の土器があらわれる以前、ヴルム氷河期から、日本列島の、とくに北方では、かなり濃密に、人が、住んでいたということである。もうひとつ、日本の縄文土器が、きわめて豊富に出土し、しかも様式的な変換があざやかにたどれ、編年密度も高いため、ついひとくくり「縄文時代」と考えてしまいがちだが、これはこれで、九千年前から二千年前までの、じつに七千年という膨大な期間をふくむのである(日本のもっとも古い縄文土器は、現在、世界で発見されている最古の土器である)。七千年という長い年月のあいだに、「土器をつくる」という技術はなるほど連綿とうけつがれたが、人間集団の系統は交替したかもしれない。すくなくとも、生産、生活様式をふくめた「文化」はかわったであろう。
現在、かなり明確に認められている「文化」の変化、あるいは交替は、縄文前期と中期の文化様式の交替である。
簡単にいうと、前期縄文文化は、それ以前から、北海道、東北を中心にしていた北方ユーラシア森林文化と共通する文化圏が、関東、中部地方にまで大きくはりだした時期だった。これに対して、この時期の近畿以西、南西方面の縄文文化は、きわめて貧弱なものだった。北方ユーラシア森林文化は、狩猟と漁撈、さらに骨格器の発達を特徴としているが、早期から前期へかけての縄文文化には、あきらかに、この北方ユーラシア型と共通のものが認められるという。また、最近では、日本に入ってきた麦の性質をしらべて、あきらかに、きわめて早い時期に、ユーラシアの北方を進んできた種類が、サハリン、北海道を経て、東北地方へ入ってきた形跡がある、といわれはじめている。縄文早、前期、つまり紀元前七〇〇〇年から五〇〇〇年への時期にかけて、日本列島では「文化は北方より」という現象があったのである。(本文より)


「北方ユーラシア森林文化」と「日本に入ってきた麦の性質をしらべて」をネットで検索したが、ヒットなし。   

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