東アジアにおいて、稲作技術、生産文化の基本複合が形成されたと考えられる地域のひとつに、江南の地があげられている。──そこから、どういう経路をとって、日本へやってきたかは、いろいろ議論がわかれるところだが、私は前三世紀ごろ、大陸の政治情勢のインパクトによって、きわめて短期的に、直接北九州へ渡来したと考えてもかまわないと思っている。
揚子江の河口部から、北九州まで、直線距離にして約七百五十キロ、ほぼ北九州から名古屋までの距離である。そのうえ、江南の沖合には、台湾と与那国島のあいだを廻って東シナ海に入りこんだ黒潮が、朝鮮海峡へむけて強い流れを形成している。夏の季節風は南から北へ吹いている。これを利用すれば三千年前の小型の帆船で、平均時速二~三ノットを出すのはむずかしくあるまい。二ノットとして二百十時間、十日たらずで北九州に到達する。朝鮮半島南西岸、済州島、対馬が、だいたい同じ航路に入ってくる。また、実際、このコースは、のちに遣唐使の南路として使われている。(本文より)