2011年6月15日水曜日

大陸の政治的インパクト

 東アジアにおいて、稲作技術、生産文化の基本複合が形成されたと考えられる地域のひとつに、江南の地があげられている。──そこから、どういう経路をとって、日本へやってきたかは、いろいろ議論がわかれるところだが、私は前三世紀ごろ、大陸の政治情勢のインパクトによって、きわめて短期的に、直接北九州へ渡来したと考えてもかまわないと思っている。
 揚子江の河口部から、北九州まで、直線距離にして約七百五十キロ、ほぼ北九州から名古屋までの距離である。そのうえ、江南の沖合には、台湾と与那国島のあいだを廻って東シナ海に入りこんだ黒潮が、朝鮮海峡へむけて強い流れを形成している。夏の季節風は南から北へ吹いている。これを利用すれば三千年前の小型の帆船で、平均時速二~三ノットを出すのはむずかしくあるまい。二ノットとして二百十時間、十日たらずで北九州に到達する。朝鮮半島南西岸、済州島、対馬が、だいたい同じ航路に入ってくる。また、実際、このコースは、のちに遣唐使の南路として使われている。(本文より)

2011年6月11日土曜日

なぜ日本に先に渡来したのか

 気候的には、北方の日本よりずっと水田稲作に適していると思われる台湾に、なぜ水稲栽培が千五、六百年もおくれて入ったか、あるいは逆に、日本列島へなぜそんなに早く稲作が入ってきたか、ということは、まことに興味ある
問題である、
 明代植民以前の台湾の状態についての研究が、どの程度進んでいるかは知らないが、台湾と日本の水稲栽培開始時期の差は、日本への稲作民が、「どこから」到来したか、ということに、ひとつの照明をあたえることになるような気がする。台湾の水稲が、対岸の福建の人びと、ついで、南の広東方面の人びとによってもたらされたことを考えれば、日本への到来は、江南ルート以外はちょっと考えられない。そして、この移住は、ひとつの歴史的──というよりは「政治的」事件によるものであった可能性がある。(本文より)

2011年6月9日木曜日

タイム・ミラーとしての台湾

 いずれにせよ、時代は千数百年ずれているが、台湾の現状は、倭国にはじめて強力な統一政権がうちたてられたころを想像させる、さまざまなヒントをあたえてくれるような気がする。日本は「統一政権」ができ上がってから、かなりなスピードで、近代以前の「国家組織化」が進み、さらに商業、工業が起こって、とくに戦後となっては、千数百年以上の過去を想像するよすがもない。しかし、台湾は、日本より、千五百年以上のちになってから、水田稲作民の移住がはじまり、本格的な「国家組織化」がはじまってからでもまだ一世紀前後である。近代化がはじまって以後の事態の進み方は、おどろくほどの急テンポではあるが、いくつかの要素を補正すれば、千数百年前の日本の姿をうつしだす「タイム・ミラー」と考えてもいいかもしれない。(本文より)

2011年6月8日水曜日

正統中国への固執



 日本はじめての統一政権をうちたてた、大和王朝の基礎はどのあたりで築かれたか、となると、諸説紛糾するところであろうが、私個人は、シチュエーションとして面白いのは、神武、崇神にならんで「ハツクニシラススメラミコト」(日本の最初の統治者の意)の名のある応神帝のあとをうけた仁徳帝から雄略帝までの、いわゆる「倭の五王」の時期ではないか、という気がする。
 大和坊地の外、大阪丘陵から河内平野に、都と陵墓を集中した、いわば「摂津・河内王朝()というべきこの時代には──もし、中国側の記録が、日本側の諸帝を指しているとするならば──しきりに中国に使いして、「東方の軍司令官兼支配者」としての正式の肩書きをもらいたがっている。征東大将軍や安東大将軍といった官名が、中国本土において、どれほどの意味を持っていたか知らないが、とにかく、中国の「官」としてオーソライズされることによって、日本統治についての「正統性」の保証を得ようとしたのである。
  *最近では、「倭の五王」を「九州王朝」とする、古田武彦氏の傾聴に価する説も出ている。
 倭王武(雄略帝に比せられる)は、宋に使いして「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍」というおそろしく長ったらしい称号をもらっている。この当時、朝鮮半島北部から沿海州にかけては、高句麗(こうくり)の勢力が大きくなりだしてきていたから、この長ったらしい官名は、要するに「高句麗をのぞく朝鮮半島諸国と日本列島の軍事支配者」という意味だが、中国側の記録をみるかぎり、五世紀はじめから六世紀へかけてのこの時期は、日本の実力政権が、中国官名に異様な熱意を示した、奇妙な一時期である。(本文より)

2011年6月4日土曜日

高度な技術集団の移住

 前に述べたように、こういう状態をみていると、なんとはなしに、千数百年前の日本も、こういう状況であったのではないか、という感じがしてくる。──なにも、今の台湾が、千数百年前の日本と同じだ、というわけではない。こういうシチュエーションは、東アジアの周辺地域で、何千年もの歴史のあいだに、何度も起こったのではないか、という気がするのである。
 千数百年前の日本のことを想像してみよう。そのころ西南日本や、近畿方面にかなり強大な部族国家がいくつか成立していたとしても、それはまだ日本全土はおろか、西日本ですら「倭国連邦」も、その比定さえはっきりしないぐらいだから、どのくらいの規模かわからない。状況をひじょううに大まかに考えてみると、日本では、きわめて古く、前に述べたような早、前期の「北方型」縄文人が東北、関東山地を中心にして展開していたところへ、紀元前五十~四十世紀ごろに「南方型」縄文人の再展開があった。さらに前三~二世紀ごろから、南西方面より、弥生稲作人の平野部への展開がはじまった。そして紀元後二~三世紀には、もう関東、東北地方をのぞいて、日本列島の東西軸方向には、ほとんど展開を終えていたであろう。(本文より)

2011年6月3日金曜日

歴史の「階層」

 この島に、約千四百万の人びとが住んでいる。面積は約三万六千平方キロで、九州とほぼ同じ、日本全土の面積の十分の一よりすくないから、人口密度は日本よりやや大きい。──ところでその住民構成だが、大部分は明、清の時代から、西の平野部へうつり住んでいた、江南、、(かなん)の中国系農民、いわゆる「本省人」であり、約一割が、一九五〇年年代に、大陸から国民政府とともにうつり住んできた「外省人」である。さらに平野の一部、山岳部、東部斜面、東島嶼(ひがしとうしょ)部には、ほうとうの意味での台湾原住民である高砂(たかさご)族──現在の台湾では「山地同胞」とよばれる人びとが散在している。人口はすくなく、二十万人あまりとされているが、とくにそのなかの、山中に住む十万余の人びとは、平地中国系の人びととは言葉も習俗もかなりちがう、きわめてユニークな文化社会を形成している。
 台湾のこういった状態を、漠然とながめていると、ふと、千数百年前、大和朝成立当時の日本も、これと似たような状態ではなかったか、という気がしてくる。(本文より)

2011年6月2日木曜日

風土

 台湾の風土は、日本人──とくに西南日本の人間に、いかにも親しみやすい感じである。
私の訪れたのは、三月だったが、緯度が低いからもちろん温かく、全島が緑におおわれている。
中央より東寄りに、富士山より高い玉(ユイ)山、つまりかつての新高(にいたか)山を頂いた、高峻な台湾山脈が、南北にほぼ全島を貫いていて、これも濃い緑におおわれている。(本文より)


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