2011年6月8日水曜日

正統中国への固執



 日本はじめての統一政権をうちたてた、大和王朝の基礎はどのあたりで築かれたか、となると、諸説紛糾するところであろうが、私個人は、シチュエーションとして面白いのは、神武、崇神にならんで「ハツクニシラススメラミコト」(日本の最初の統治者の意)の名のある応神帝のあとをうけた仁徳帝から雄略帝までの、いわゆる「倭の五王」の時期ではないか、という気がする。
 大和坊地の外、大阪丘陵から河内平野に、都と陵墓を集中した、いわば「摂津・河内王朝()というべきこの時代には──もし、中国側の記録が、日本側の諸帝を指しているとするならば──しきりに中国に使いして、「東方の軍司令官兼支配者」としての正式の肩書きをもらいたがっている。征東大将軍や安東大将軍といった官名が、中国本土において、どれほどの意味を持っていたか知らないが、とにかく、中国の「官」としてオーソライズされることによって、日本統治についての「正統性」の保証を得ようとしたのである。
  *最近では、「倭の五王」を「九州王朝」とする、古田武彦氏の傾聴に価する説も出ている。
 倭王武(雄略帝に比せられる)は、宋に使いして「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍」というおそろしく長ったらしい称号をもらっている。この当時、朝鮮半島北部から沿海州にかけては、高句麗(こうくり)の勢力が大きくなりだしてきていたから、この長ったらしい官名は、要するに「高句麗をのぞく朝鮮半島諸国と日本列島の軍事支配者」という意味だが、中国側の記録をみるかぎり、五世紀はじめから六世紀へかけてのこの時期は、日本の実力政権が、中国官名に異様な熱意を示した、奇妙な一時期である。(本文より)

フォロワー