気候的には、北方の日本よりずっと水田稲作に適していると思われる台湾に、なぜ水稲栽培が千五、六百年もおくれて入ったか、あるいは逆に、日本列島へなぜそんなに早く稲作が入ってきたか、ということは、まことに興味ある
問題である、
明代植民以前の台湾の状態についての研究が、どの程度進んでいるかは知らないが、台湾と日本の水稲栽培開始時期の差は、日本への稲作民が、「どこから」到来したか、ということに、ひとつの照明をあたえることになるような気がする。台湾の水稲が、対岸の福建の人びと、ついで、南の広東方面の人びとによってもたらされたことを考えれば、日本への到来は、江南ルート以外はちょっと考えられない。そして、この移住は、ひとつの歴史的──というよりは「政治的」事件によるものであった可能性がある。(本文より)