2011年7月1日金曜日

大陸からの落人

 さて、前三世紀はじめ、つまり弥生稲作人のもっとも早い文化が、北九州にあらわれるころ、江南の地で、どんなことがあったか、というと、時代は、そろそろ戦国後期で、大陸北西部の秦の進出がしだいに強まり、諸国は合従してこれにあたろうとしていた。大陸南部を占める楚(そ)の国では、西北方を秦に侵され、屈原(くつげん)が汨羅(べきら)の淵に身を投じたころである。しかし、揚子江下流では、楚は山東を中心とする斉の領土だった淮河(わいが)河流域北岸の莒(きょ)の地を侵犯し、琅琊(ろうや)のあたりまで進出した。前二八〇年代のことである。ここは、宿敵呉をうちやぶった越人が、北上占拠したところである。楚は前四世紀末から、何度か揚子江下流、大陸東岸の勝者となった越人をうち、その根拠地をほろぼした。越人の本拠は、むろん江南からさらにその南の閩(びん)、つまり福建方面であり、うたれれば南方へ退いたろうが、江南淮水方面にも進出していた連中は、降服するか、北、または東海へ逃れたのではないだろうか?こうした揚子江下流域の情勢を考えると、この地と北九州初期弥生人のつながりは、ある程度可能性が濃くなってくるような気がする。
九州縄文後期の土器(上)と、初期弥生式土器(下)にみられる相互影響

上─深鉢(鹿児島県武貝塚)・縄文後期・高23.5㎝・京都大学文学部考古学研究室保管

下─深鉢(福岡県遠賀郡遠賀村)・弥生前期・高28.5㎝・明治大学考古学陳列館蔵
(本文より)

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