2011年7月28日木曜日

秦とアラブ

 ところで、この「秦」という国がまた面白い。
 中国は「漢文明」が古来さかえた地と思われているが、「漢文明」が本格的に成立するのは、文字どおり、前三世紀から後二世紀までの漢代であって、中国北部の「王朝」は、地つづきのユーラシア西方、北方からの侵入異民族によって形成されたことが何度もある。私たちのいちばんよく知っているのは、北方遊牧地帯から興って、巨大な世界帝国を築き上げたモンゴル人の「元」がそうであるし、二十世紀に中華民国ができるまで、二百数十年間強大なる帝国を維持した「清」は、南ツングースの一派の女真(じょしん)──満州族であった。もっと前なら、四世紀五胡十六国以来の小国乱立状態に終止符をうち、大唐帝国出現への道をひらいた、強大な「隋」帝国の王室は、トルコ系だった。古来、たいへんな文明人である漢民族の風は、強大な軍事力を使って、武断政治でもって、強引に乱れた世を統一する、といったことは苦手なようで、まず強力な異民族の覇王に武力統一をさせ、のち正統の名分をたてて「義戦」をもって、その骨格を頂載する、という例が多いように思うがどうだろうか。
 そして、中国に、最初に強大な中央集権国家をうちたて、強力な官僚制にもとに皇帝親政を行なった秦の王室に、ペルシア──つまり、イラン人の血が入っていると、という説がある。始皇帝の親は、戦国の趙(ちょう)に人質にとられていたことがあったが、趙での綽名(あだな)を、「異人」といった。始皇帝自身、白面紫髯碧眼(はくめんしぜんへきがん)だった、という人もいる。──秦という国は、黄河上流、現在の西安、唐代首都長安のすぐちかくにあり、ここから西へむけて、シルク・ロードがはるかインド、ペルシア、東ローマの地までつづいている。当然、秦は中国統一以前から、西域、オリエント──つまり中央アジアから中東世界との交流があったであろう。(本文より)

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