2011年7月2日土曜日

移住の動機

 ところで、焼畑イモ栽培、あるいは焼畑雑穀栽培──この雑穀のなかに陸稲もふくまれる──のように、たいへん古い農業技術とちがって、平地水稲栽培は、かなり高度な技術複合を前提とする。農具も、焼畑のばあいはせいぜい掘棒でいいが、平地、あるいは緩傾斜地に水田をつくるとなると、そうとう発達した耕転具類が必要になる。焼畑は、
山林に火を放って、やけたあと大きな木をかたづけ、灰をならして、あと種子をじかまきにするが、適当な間隔で掘棒で穴をあけて種をまく程度でいいが、水田農耕、それも平地水田となると、鋤(すき)、鍬(くわ)など、そうとうな耕転農具がいる(日本には木製農具のほか、青銅、鉄器が同時に渡来したと考えられている)。
 そのうえ何よりも高度な水利技術がいる。粗放な焼畑にくらべれば、平地水田は、一種の「工場」といっていいほどの、綿密な設計、造成、管理技術が必要である。何よりも、「測量」という技術が必要になってくる。北九州にはじめて稲作が上陸したと考えられる時期から、四百年ちかくたった紀元一世紀ごろの弥生後期初頭のものだが、静岡県登呂(とろ)遺跡の平地水田遺構などは、低落差の地帯に、じつにミリメートル単位の精密な灌漑(かんがい)施設をつくり、しかも木板を利用した、見事な水路をつくっているという。四百年のあいだの技術進歩を計算に入れても、当初入ってきた水稲栽培技術複合が、かなりのレベルだったことは否めまい。(本文より)

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