2011年7月23日土曜日

秦氏の謎

 が、これが、「古代の秦(はた)氏は、実は異端キリスト教徒だった」という説になると、ぐっと現実味をおびてくる。──秦氏はむろん、「日本書紀」をはじめ、勅撰の『正史』に顔を出す、れっきとした古代豪族である。おもに、九州と京都を中心に、各地にこの氏名を冠した地名も多く、とくに奈良時代末から平安初期にかけて、官位にのぼったものの名も記録に多い。記紀には、応神帝のころ(三世紀末)、新興新羅(しらぎ)の圧迫をうけ、朝鮮半島から秦の始皇帝の子孫を称する弓月君という貴族が、百二十県の民、九十二部族をひきいて日本に渡来して畿内周辺に居住を許され、機織(はたおり)の技術をもって、秦氏を名のった、という。──現京都府になる山城国を開いて巨富を築きあげた。推古朝のころ、秦川勝(はたのかわかつ)は聖徳太子のパトロンとなり、また山城の百済(くだら)系渡来貴族の娘を母にもつ桓武帝の、長岡、平安遷都には、この豪族の富が大いにものをいったらしい。
 この秦氏の氏寺(うじでら)が、「泣き弥勒(みろく)」で有名な京都太秦(うずまさ)の広隆寺である。
 この広隆寺がまた奇妙な寺で、宗旨はいちおう真言御室派(おむろは)だが、かつての境内(現在は木島[このしま]神社)に池があって、その池に三本脚の鳥居がある。三本脚は、ちょうど一二〇度の角度で配置されているから、鳥居の上から見ると、ちょうど三枚ばねのプロペラのような恰好をしている。──こんな奇妙な鳥居は、ここをのぞいて、日本じゅうどこにもないのだが、この△の形が、ユダヤにおいて重要な意味をもつ紋章だ、という説がある。
(本文より)

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