が、これが、「古代の秦(はた)氏は、実は異端キリスト教徒だった」という説になると、ぐっと現実味をおびてくる。──秦氏はむろん、「日本書紀」をはじめ、勅撰の『正史』に顔を出す、れっきとした古代豪族である。おもに、九州と京都を中心に、各地にこの氏名を冠した地名も多く、とくに奈良時代末から平安初期にかけて、官位にのぼったものの名も記録に多い。記紀には、応神帝のころ(三世紀末)、新興新羅(しらぎ)の圧迫をうけ、朝鮮半島から秦の始皇帝の子孫を称する弓月君という貴族が、百二十県の民、九十二部族をひきいて日本に渡来して畿内周辺に居住を許され、機織(はたおり)の技術をもって、秦氏を名のった、という。──現京都府になる山城国を開いて巨富を築きあげた。推古朝のころ、秦川勝(はたのかわかつ)は聖徳太子のパトロンとなり、また山城の百済(くだら)系渡来貴族の娘を母にもつ桓武帝の、長岡、平安遷都には、この豪族の富が大いにものをいったらしい。
この秦氏の氏寺(うじでら)が、「泣き弥勒(みろく)」で有名な京都太秦(うずまさ)の広隆寺である。