2011年9月17日土曜日

マルハン 賭博機?

一円パチンコ。
毎回、エグイ。

たとえば、この台のデーター。
見方も分からない。

店員に尋ねると、よくあることらしい。

「甘デジ」とは、賭博機のことなんだろうか・・・?

いつ、誰が営業許可をしたんだろう?

2011年9月16日金曜日

「人種」の先天性、「国民」の人為性

 この三つの概念のうち、「人種」と「国民」は、比較的わかりやすいと思う。「人種」は、皮膚や眼の色といった形質的遺伝にかかわる。しかし、本来ヒトという生物は、外見上の形質がちがっても、混血可能なのだから、生物的には「単一種」であることは前に述べたとおりである。「国民」は、要するに「登録」の問題であって、現在では、「生まれた場所」に関係している。つまり、両親が日本人で、日本国籍であっても、生まれが外国であり、その国が属地主義の国籍法をもっていれば、まずその国の「国民」として登録される。外国籍の船や飛行機のなかで生まれれば、その国籍で登録されるのである。ただし、両親がちがう国籍のばあい、本人が十七歳なり十八歳──つまり「成人」になれば、もう一度そこで、両親の国籍をえらぶか、あるいは出生地の国籍のままでいるか、「選択」のチャンスが与えられるのがふつうである。
 日本人にとっては、ずいぶん奇妙なことに思えるかもしれないが、もともと「国民(ネイション)」という言葉は、「自然(ネイチュア)」などと同じで、ラテン語の「生まれる(ナスコール)」という言葉に由来する。両親の人種、
国籍はどうでも、その国の領土内に「生まれた」ものは、いちおう「国民(ネイション)」として登録する、というのは、「国民国家(ナショナル・ステート)」の出現と密接に関係しているのだ。「帰化」という言葉を、英語で「ナチュラライズ」というのは、日本人の語感からすると「自然化する」という妙なことになってしまうが、「自然(ネイチュア)」も「国民(ネイション)」も同じ「生まれる(ナスコール)」を語源とすることを思えば、むこうではごく当たり前の語感であろう。
 ところで、「人種」と「国民」のあいだに位置する「民族」というものは、実をいうといちばんとりあつかいがやっかいなものなのである。──「民族」というものは、「人種」のように、遺伝的・先天的に決定されるものではない。最広義の意味で、「人間のつくったもの」である。といって、「国民」のように、完全に「人為的」で、簡単に選択したり、変更したりできるものでもない。
 ここには「歴史」というものが介在してくる。──前に述べたように「民族」は、ある共通の「文化」でもって歴史的にむすばれた社会集団であって、人間というものは、運命的に数多くあるこういった社会集団の、ということは、特定の皮膚や髪の色といった形質を持って生まれてくる、といった先天的──言い方をかえれば宿命的──なものではない。人間は、生まれてきてから、後天的に、ある「民族」の一員として、育ってゆくのである。ここでは文化的な「条件づけ(コンディショニング)」が、その集団のメンバーとなるためのほとんどすべてを決定するといっていい。(本文より)

「人種」・「国民」・「民族」

 前に、「民族のアイデンティティ」という言葉を使った。──アイデンティティ=identityという言葉は、日本語にうまい訳がなく、簡単な辞書をひくと「同一」とか「本体」とかいう意味が出ているが、ここでは、「日本民族が、日本民族である所以(ゆえん)のもの」ぐらいの意味に解していただきたい。
 はじめにもちょっとふれたが、「日本民族」というのは、「日本人」と厳密に同じではない。私たちが、通常、ごく何気なく使っている「日本人」のなかには、「日本民族」や「日本国民」や、ばあいによっては「人種」の意味が──はっきりいって「日本人種」という「人種」は存在しないのだが──ごく曖昧にかさなりあって使われている。「民族」や「国民」や「人種」が、それぞれちがう概念であることはいうまでもない。
 「人種」というのは、いちおう形質的・生物学的分類概念であるが、いわゆる「黄色人種(モンゴリーデ)」「黒人種(ネグリーデ)」「白人種(オイロビーデ)」の大ざっぱな身体的・遺伝的特徴は分類できるものの、それ以上の細かい分類は、たいへんあいまいなものである。なにしろ、人類は生物学的にはひとつの「種」であって、人種間でいくらでも混血できるし、それによって中間形質もいくらも生まれるから、「民族」の概念と混同するのは、厳密に避けられねばならない。(本文より)

2011年9月10日土曜日

大和流の改造

 こうみてくると、すでに大和、奈良時代から、日本側には、先進中国の制度文物を、何もかも、無原則に入れたわけではなく、「宦官」や「科挙」のばあいのように、「あれは入れるがこれは入れない」というような選択の基準があったような気がする。──これも「海をへだてて」国があるおかげでできたことかもしれないが、大量の制度文物を入れながら、それを日本の現実に使いやすいように、「大和流」に改造するゆとりがあった。
 朝鮮半島で、十五世紀にはじめて「朝鮮文字」ともいうべきハングルがつくられたときより五百年以上早く、日本語表記用の片仮名をつくり、(万葉仮名はさらに古く、八世紀にさかのぼる)十一世紀には堂々たる仮名──つまり日本文字の文学をつくるし、文法構造のちがう漢文も「返り点」をつけて日本風の訓読をする。氏制度は入れても、同姓不婚は入れない。中国聖賢の教えをあれほど尊重し、その思想の多くを借りながら、孔子は入れても、孟子はなかに革命弑逆(しいぎやく)の思想が入っている、というので、「大陸から孟子の書をつんでくる船は、日本の神の忌諱(きい)に触れて、必ず途中で沈む」と、江戸時代までいわれた。
 舶来最新の知識を身につけ、こなすことを、平安期には「漢才(からざえ)」ちいい、その輸入文物を、日本の現実や心情にあうように、自由に変形する、その「日本的心情」の原点のことを、「和魂(やまとごころ)」とよんでいた。──「和魂漢才」は、考えてみれば千年ちかい歴史を持った、古い言葉なのであり、それがおりにふれて、「和魂洋才」「士魂商才」などと変化した。「敷島のやまとごころを人間わば、朝日に匂う山桜花」と宣長(のりなが)はうたい、これが戦時中、妙に「皇国国粋」を謳歌するように宣伝されたが、「やまとごころ」とは、当今の表現でいえば、民族の「セルフ・アイデンティティ」のことなのである。(本文より)

同姓不婚のタブー

そのほかにも、日本に入ってきてもよさそうなもので、入ってこなかったものはいくつもある。──中国文明、というよりも「漢文明」のたいへん重要な要素になっている「同姓不婚」という婚姻形式も日本にはいっていない。朝鮮半島までは、がっちり入っているのにかかわらず、とうとう海峡をわたってこなかった。同姓不婚というのは、簡単にいうと、王妃なら王妃の家族同士は通婚しない、という婚姻タブーで、古く漢代に成立し、朝鮮半島では、高麗のころから入り、おそくとも、李朝朝鮮のころにはすみずみまで滲透したらしい。同性でも、この本貫(本籍)とこの本貫となら通婚できる、といったこまかい規定がある(革命後の人民中国では、法律では同姓不婚をべつに規定していないが、しかし通婚は八親等以上のあいだ、というきびしいものであって、やはりその痕跡が強くのこっているようである)。「イトコ同士は鴨の味」などといって、三親等はなれれば、いっこうかまわない、という感覚の日本人は、そんな話をきくと、きょとんとしてしまうが、むこうではたいへんやかましく、また結婚しても、女のほうは実家の姓を名のるものである。(本文より)

なぜ馬車が入らなかったか

 大陸において、これほど発達した馬車が、どういうわけか近代以前の日本には入ってこなかった。「馬車」があらわれるのは、じつに明治開国以後、欧米の影響をうけてである。──明治以後でも、それほど普及したわけではない。辻馬車、乗合馬車は、大都市ではたちまち軌道電車や自動車にとってかわられ、貴族上流階級の乗物として、一時期のこっていたにすぎない。馬に牽かせる荷車のほうは、それでもそうとうに普及し、第二次大戦後までのこったが、「乗物」としての馬車は、まったく貧弱な展開しかみせなかった。
 家畜に牽かせることがなかったわけではない。──平安期には「牛車(ぎつしや)」が都や地方都市で普及し、とくに京都では平安中期に華美に走って、たびたび官から制限が発令されている。昇殿をゆるされぬ六位、七位の地下人(じげびと)まで、自家用の牛車を持ち、加茂の祭りのときには行列を見る牛車がむらがって、パーキング・スペースの問題で、よく衝突や喧嘩が起こったことが、当時の公卿(くげ)、女房の「日記」に記されている。おそらく都市だけで、千の単位があったであろう。(本文より)

2011年9月9日金曜日

馬車文化

 近代以前に、日本に入ってこなかったものをしらべてゆくと、奇妙なことにいくつもぶつかる。
 たとえば、「戦車」などというものが、日本に入っていない。
 「戦車」といっても、第一次世界大戦のときに出現した、あの近代兵器としての「タンク」のことではない。馬に牽(ひ)かせる、戦闘用の乗物、──チャリオットのことである。はっきりいって、「馬車」が近代以前の日本に入っていないのだ。
 人類が馬を家畜にしはじめたのは、きわめて古い。──牛よりは新しいといっても、紀元前四千年代には、イラン、メソポタミア付近の村落址(し)で、家畜化の形跡があり、それから一時、古代遺跡中から姿を消すが、前二千年代には、もう車を牽き、人を乗せて姿を現す。古代インドの世界に中央アジア方面から南下して来たアーリア族や、エジプトに侵入したヒクソス、メソポタミアを武力征服したカッシートなどの諸族は、馬に牽かせた「戦車」を持っていた。 「戦車」はややおくれて東アジアにもあらわれる。古代中国の殷墟(いんきょ)の墳墓から出た、多数の馬の骨と戦車は有名である。──おそくとも紀元前一三〇〇年ごろまでに、東アジアには馬に牽かせた戦車が使われるようになっていた。重歩兵と戦車を中心とする軍団は、あぶみの発明によって、前十二世紀ごろから、しだいに機動力に富む騎兵中心にかわっていくが、それにしても、馬車がなくなったわけではなかった。とくにギリシア、ローマは、最後まで戦車を重視した。また、史上何度も文明圏をおびやかし、人類史を書きかえた遊牧民にとって、彼らの家族ぐるみの集団移動のありさまは、「動く都市」とよばれるほどだった。
(本文より)
 

2011年9月8日木曜日

sitting

開店から閉店まで、パチンコ台の前で座っている。
パチンコ依存症。

「何かが、頭の中をヨギル・・・?」

Sitting in the morning sun
I'll be sitting when the evening comes
Watching the ships roll in
And I watch 'em roll away again

Sitting on the dock of the bay
・・・・・・

CDを聴きながら、出かけたこともあったが・・・。
(ローライフレックスMX 400TX )

You Tubeより
Bruce Springsteen
Waitin' On A Sunny Day

You Tubeより
Rolling Stones
Honky Tonk Women HQ


この一瞬の・・・
一秒の何分の一が、撮る側の『♪』だと思ったが・・・?

You Tubeより
Bruce Springsteen
Dancing In the Dark(Reieased May '84 Billboad 2)

当時TVで観た印象と違っていた、85年(?)大阪公演のDancing In the Dark。

ネット調べでは、違和感を感じるものであった。
それは、最初に書きあげたスタイルでアレンジされたものだそうだ。

NHKで、よく「日本の歌」とか「日本の心」といったタイトルで歌番組が紹介されているが、個人的に嘘っぽく思えてならない。


個人的な「そこかしこ」にあるものを・・・?

・・・
I'm just on the dock of the bay
Wasting time

ドック・オブ・ベイ』(原題 (Sittin' On) The Dock Of The Bay)は、アメリカのシンガーソングライター、オーティス・レディングが1968年にリリースしたシングル。作詞および作曲は、オーティス・レディングとスティーヴ・クロッパー。
ビルボード誌では、1968316日に週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1968年年間ランキングでは第6位。
ビルボード誌の集計では、オーティス最大のヒット曲。また、ロック時代(195579日以降)では初めて、アーティストの死後に発表されてチャート1位を獲得したシングルとなった。
1967年夏、当時カリフォルニア州サウサリートのボートハウスに滞在していたオーティスは、プロデューサーだったスティーヴと共にこの曲を作詞作曲し、126日と127日にメンフィスでこの曲の録音を完了させた。しかしその3日後の1210日、オーティスの自家用飛行機が、ウィスコンシン州マディソンに向かう途中マノマ湖に墜落した。オーティスと、バックバンドバーケイズのメンバー、スタッフ、パイロットの4人が死亡した。
1968年、発売前に、アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーが楽曲にリミックスを行ったが、結局発売されたバージョンはリミックスをかけないものであった。
その後、映画『トップガン』の日本版オリジナルサウンドトラックのボーナストラックとして新たに収録された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部転載)

2011年9月3日土曜日

主体的選択

 日本では早く稲作、漁撈が生活の基盤となって、大型家畜は「食べる」うえにあまり重要な意味を持たなかったから、大量飼いのために必要な去勢技術は入れる必要はなかったのだ、という解釈はだれでもすぐ思いつくだろう。──しかし、「技術」というものは、いったん確立すると、発生のもととなった条件とはべつに、それ自体としてつたわってゆく。現代で「洋服」や「電波通信」が、各国の伝統文化と関係なしに、全世界に普及したように・・・・・・。「騎馬戦闘技術」や「武家道徳」は、遊牧社会に発生したが、これはちゃんと日本につたわった。牛は西日本で山地放牧をやっていたが、馬は東国の牧でけっこう「大量飼い」をやっている。にもかかわらず、日本の導入した遊牧文化系の技術のなかで、「去勢」だけが落ちている。 
 これに対して、大陸では、いったんこの「技術」が確立すると、本来その必要のない、鶏、豚などの庭先家畜や、犬、猫などの愛玩動物にまでおよぼすようになる。──「宦官」は、この技術を人間に対して応用したもの、といってまちがいでないだろう。
 そうすると、「去勢」「宦官」をいれなかったことについては、はっきり日本側の、主体的な「選択」があったとみるべきだろう。「これは入れるが、あれは入れない」「家畜は入れるが、去勢は落とす」という、「文化選択」がはたらいたにちがいない。──この「選択の原理」に「日本文化」というものの性格が浮き彫りされえてくるように思える。(本文より)

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