こうみてくると、すでに大和、奈良時代から、日本側には、先進中国の制度文物を、何もかも、無原則に入れたわけではなく、「宦官」や「科挙」のばあいのように、「あれは入れるがこれは入れない」というような選択の基準があったような気がする。──これも「海をへだてて」国があるおかげでできたことかもしれないが、大量の制度文物を入れながら、それを日本の現実に使いやすいように、「大和流」に改造するゆとりがあった。
朝鮮半島で、十五世紀にはじめて「朝鮮文字」ともいうべきハングルがつくられたときより五百年以上早く、日本語表記用の片仮名をつくり、(万葉仮名はさらに古く、八世紀にさかのぼる)十一世紀には堂々たる仮名──つまり日本文字の文学をつくるし、文法構造のちがう漢文も「返り点」をつけて日本風の訓読をする。氏制度は入れても、同姓不婚は入れない。中国聖賢の教えをあれほど尊重し、その思想の多くを借りながら、孔子は入れても、孟子はなかに革命弑逆(しいぎやく)の思想が入っている、というので、「大陸から孟子の書をつんでくる船は、日本の神の忌諱(きい)に触れて、必ず途中で沈む」と、江戸時代までいわれた。
舶来最新の知識を身につけ、こなすことを、平安期には「漢才(からざえ)」ちいい、その輸入文物を、日本の現実や心情にあうように、自由に変形する、その「日本的心情」の原点のことを、「和魂(やまとごころ)」とよんでいた。──「和魂漢才」は、考えてみれば千年ちかい歴史を持った、古い言葉なのであり、それがおりにふれて、「和魂洋才」「士魂商才」などと変化した。「敷島のやまとごころを人間わば、朝日に匂う山桜花」と宣長(のりなが)はうたい、これが戦時中、妙に「皇国国粋」を謳歌するように宣伝されたが、「やまとごころ」とは、当今の表現でいえば、民族の「セルフ・アイデンティティ」のことなのである。(本文より)