2011年9月10日土曜日

なぜ馬車が入らなかったか

 大陸において、これほど発達した馬車が、どういうわけか近代以前の日本には入ってこなかった。「馬車」があらわれるのは、じつに明治開国以後、欧米の影響をうけてである。──明治以後でも、それほど普及したわけではない。辻馬車、乗合馬車は、大都市ではたちまち軌道電車や自動車にとってかわられ、貴族上流階級の乗物として、一時期のこっていたにすぎない。馬に牽かせる荷車のほうは、それでもそうとうに普及し、第二次大戦後までのこったが、「乗物」としての馬車は、まったく貧弱な展開しかみせなかった。
 家畜に牽かせることがなかったわけではない。──平安期には「牛車(ぎつしや)」が都や地方都市で普及し、とくに京都では平安中期に華美に走って、たびたび官から制限が発令されている。昇殿をゆるされぬ六位、七位の地下人(じげびと)まで、自家用の牛車を持ち、加茂の祭りのときには行列を見る牛車がむらがって、パーキング・スペースの問題で、よく衝突や喧嘩が起こったことが、当時の公卿(くげ)、女房の「日記」に記されている。おそらく都市だけで、千の単位があったであろう。(本文より)

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