2011年9月16日金曜日

「人種」の先天性、「国民」の人為性

 この三つの概念のうち、「人種」と「国民」は、比較的わかりやすいと思う。「人種」は、皮膚や眼の色といった形質的遺伝にかかわる。しかし、本来ヒトという生物は、外見上の形質がちがっても、混血可能なのだから、生物的には「単一種」であることは前に述べたとおりである。「国民」は、要するに「登録」の問題であって、現在では、「生まれた場所」に関係している。つまり、両親が日本人で、日本国籍であっても、生まれが外国であり、その国が属地主義の国籍法をもっていれば、まずその国の「国民」として登録される。外国籍の船や飛行機のなかで生まれれば、その国籍で登録されるのである。ただし、両親がちがう国籍のばあい、本人が十七歳なり十八歳──つまり「成人」になれば、もう一度そこで、両親の国籍をえらぶか、あるいは出生地の国籍のままでいるか、「選択」のチャンスが与えられるのがふつうである。
 日本人にとっては、ずいぶん奇妙なことに思えるかもしれないが、もともと「国民(ネイション)」という言葉は、「自然(ネイチュア)」などと同じで、ラテン語の「生まれる(ナスコール)」という言葉に由来する。両親の人種、
国籍はどうでも、その国の領土内に「生まれた」ものは、いちおう「国民(ネイション)」として登録する、というのは、「国民国家(ナショナル・ステート)」の出現と密接に関係しているのだ。「帰化」という言葉を、英語で「ナチュラライズ」というのは、日本人の語感からすると「自然化する」という妙なことになってしまうが、「自然(ネイチュア)」も「国民(ネイション)」も同じ「生まれる(ナスコール)」を語源とすることを思えば、むこうではごく当たり前の語感であろう。
 ところで、「人種」と「国民」のあいだに位置する「民族」というものは、実をいうといちばんとりあつかいがやっかいなものなのである。──「民族」というものは、「人種」のように、遺伝的・先天的に決定されるものではない。最広義の意味で、「人間のつくったもの」である。といって、「国民」のように、完全に「人為的」で、簡単に選択したり、変更したりできるものでもない。
 ここには「歴史」というものが介在してくる。──前に述べたように「民族」は、ある共通の「文化」でもって歴史的にむすばれた社会集団であって、人間というものは、運命的に数多くあるこういった社会集団の、ということは、特定の皮膚や髪の色といった形質を持って生まれてくる、といった先天的──言い方をかえれば宿命的──なものではない。人間は、生まれてきてから、後天的に、ある「民族」の一員として、育ってゆくのである。ここでは文化的な「条件づけ(コンディショニング)」が、その集団のメンバーとなるためのほとんどすべてを決定するといっていい。(本文より)

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