いずれにせよ、拝火教は、唐まで入った。五世紀あたりからぼつぼつ入りはじめ、七世紀の唐の時代になると、首都長安に官許の大寺院ができるようになった。さらに七世紀前半、ゾロアスター教を国教としていた西方の大帝国ササン朝ペルシアが、サラセンにほろぼされると、急激に信徒がふえ、「波斯寺」というものさえ建設された。おそらく滅亡したペルシアの難民が、大量に中国へ流れこんだからであろう。
東西交流史のなかで、唐代は、前にあげた秦の時代とならんで面白い時代である。──前三世紀、それまでの中国になかった強力な中央集権制で全土を統一した秦が、陜西の地で急に強力になりだす前、西方ではアレクサンダー大帝による古代ペルシアの滅亡という事件があった。──そして逆に、前四世紀における古代ペルシアの滅亡が、シルク・ロードの東のターミナルに一する秦に、どんな影響をあたえたかということも(中国の戦国時代の末であり、始皇帝が焚書(ふんしょ)を行ったため、そういう記録は極端にすくないのだが)、この唐代のササン朝ペルシア滅亡の影響から、ある程度想像することができる。(本文より)