古代から近代にいたる二千年ちかくのあいだ、ユーラシア大陸の東方海上にうかぶ日本列島には、じつにさまざまなものが、入ってきた。──だが、ついお隣りの朝鮮半島や、山東まで伝播(でんぱ)してきながら、ついに日本へ入ってこなかったものもたくさんある。「入ってこなかった」といっても、そのパターンはいくつかある。
ある文化や制度、文物といっしょあにいちおうわたってきていながら、その後日本のなかで痕跡が消えてしまったものもあれば、日本がある文明をうけ入れるとき、その部分だけ、「拒絶」した、と思われるものもある。あたかも「文化検閲」を行なったように・・・・・・。むこうが大陸側の水際で足ぶみしてしまって、海をおしわたってこなかった、と思われるものもある。あるいは、大陸側のある地点までつたわっておきながら、日本にわたる前に、「消化」されてしまって、痕跡がわからなくなってしまったものもあるだろう。──いずれにしても、「入ってこなかったもの」をしらべてゆくと、そこに文化伝播というものの性質や、「日本という社会」の性格が浮き彫りにされてきて、なかなか面白いのである。
七世紀から八世紀へかけての大和、奈良朝時代は、大陸では唐の全盛期で、そこから政治制度も、宗教も、文字も、いっさいの「文明」を輸入して、日本という「国」をつくったことは前に述べた。
しかし、宗教は、仏教のみが定着した。祅教も景教も、どちらも、長安におけるごとく、日本政府の正式の「許可」を得て、「寺院」を建設し、「教典」を翻訳し、「伝道・布教」につとめた、という記録も伝説もないのである。(本文より)