2011年8月11日木曜日

正倉院にのこされたもの

 こういう時代の東アジアのなかに、飛鳥、奈良、平安朝の日本、というものをおいてみると、平安後期から鎌倉初期、それに徳川二百五十年の二つの「鎖国期」のフィルターを通してふりかえる七、八世紀の日本とは、またちがった風景が見えてくる。──第一回遣唐使(六三〇年)の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)は、長安の都で、金髪、赭髯(しゃぜん)、碧眼の異様な服装の「胡人」をたくさん見たであろう。高向玄理(たかむこのくろまろ)は、長安の都で、拝火教の寺院や、ネストリウス派キリスト教の寺院での、神道や仏教とちがう、異様な礼拝を見たにちがいない。──そのあと、城外の「外人バー」で、金髪碧眼のペルシア出身のホステス相手に一ぱいやっただろうか?
 七、八世紀の唐は、偉大な「世界帝国」であり、ユーラシアの大国際交流時代における、西のビザンチン、中央アジアのバクダートにならぶ東の大センターであった。──この時代、西のヨーロッパは、西のローマの滅亡によって、蛮族ゲルマンの晦冥(かいめい)に沈んでいた。北は満州、モンゴル、シベリア、南は東南アジア、セイロン(スリランカ)、西ははるかアラブのサラセンに接し、地大博物(ちだいはくぶつ)、辺境や属国、また西方の大帝国から、あらゆるエキゾチックな産品、動物、風俗、宗教、思想が集まってきた。唐文明の初期は、「世界帝国」としての闊達(かつたつ)さ、寛容さがみなぎり、あらゆる異質なものが流入し、共存することを許した。
 この時期の、唐の「東」にあったのが、奈良、平安の日本である。(本文より)

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