2011年8月11日木曜日

景教とイスラム教

 何度も述べたように、ゾロアスター教──祆教は、唐のはじめに長安で寺院をたてることを勅許された。そのあと、ササン朝が滅びると、たくさんのペルシア人拝火教徒が流入し、波斯寺をたてた。この波斯寺は、唐では一名「大秦寺」とよばれた。中国人のセンスでは、ペルシアや東ローマは、陝西──つまり、シルク・ロードの東の入口から西へのびる地域──に興った「秦」の大いなるもの、つまり「秦の故国」のように思われていたようである(このことも、始皇帝の「秦」が、イラン系王朝ではないか、と思われる根拠のひとつになっている)。祅教ばかりでなく、東ローマで迫害されたユダヤ教徒や、ローマ世界の宗教会議で「異端」とされたキリスト教の一派、ネストリス派やアリウス派まで入ってきた。ネストリウス派は、中央アジアのコーカサス付近で信仰されたキリスト教の一派で、今でもアルメニアあたりでさかんである。アリウス派は、アルプス以北から東ヨーロッパへかけての、ゲルマン、スラブの「蛮族」のあいだにひろまっていた。 
 このネストリウス派も、唐の初期、太宗のころ、紀元六三六年に、中国へ、阿羅本(オロボン)というペルシア人によってつたえられたことがはっきりしている。──ネストリウス派のことを、中国では「景教」といった。「日の大いなるもの」を拝む宗教、といった意味である。日本の飛鳥朝に、この景教の影響が日本へ入り、聖徳太子の降誕、昇天伝説は、このキリスト教異端の考えによってつくられたのではないか、というのが、梅原猛氏の『隠された十字架』(新潮社刊)の、推論の核心のひとつである。またアラビア人が大勢来たから、当然イスラム教も入ってきた。唐の三代高宗のころ(六五一年)サラセンの使者が長安に来て、それ以後、イスラム教が正式に許され、寺院もできた。回教、または回回(フイフイ)教(またはホイホイ)とよばれた。──当然のこと、海辺都市に多かったろうと思われる。もちろん、仏教はますますさかんで、玄奘(げんじょう)三蔵法師はシルク・ロード経由、義浄(ぎじょう)は南海経由でインドへ行った。セイロンの仏僧も来た。このころのインドは、中心部では仏教が衰え、ヒンズー教とそれについての美術、文学がさかんになっている。(本文より)

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