2011年8月25日木曜日

イスラム教の痕跡


 イスラム教も同様である。──七世紀ペルシアをほろぼしたサラセンの強力な国教となったこの当時の新興宗教は、八世紀に唐に入って、やはり布教を許され、寺院を築き、その後もインド洋を経て南海づたいに、またシルク・ロードを経て北西方より、中国に流れこみつづけるのだが、しかし、ついに日本に「伝道」されるにいたらなかった。
(中略)
 日本も、十四世紀以降に起こる「後期倭寇(わこう)は、江南、南海に 進出している中国の海賊──つまり航海民と手をにぎり、江南の大船建造技術が日本にもつたえられて、これがのち勘合符(かんごうふ)貿易の末吉(すえよし)、角倉船(すみのくらぶね)や南海へ出かけた御朱印船、また堂々と太平洋をこえて支倉常長(はせくらつねなが)をメキシコへはこんだ大船建造のもとになるのだから、このとき、南海、江南へまできていたイスラム教が、当然日本に入ってきて、有力な信徒ができてもよさそうなものだが、これがない。
 もっとも、祆教のように、「痕跡」として入っている、という説もある。平安末に民間にあらわれ、中世から江戸へかけてさかんになる回国(かいこく)巡礼の六十六部・・・・・・法華(ほけ)経六十六部を、全国の六十六ヶ所の霊場へおさめるために旅をする巡礼で、俗に「六部(ろくぶ)」とよばれているが、彼らが頭にかぶる白い布の特別の
「角頭布」の巻き方が、アラブのメッカ巡礼者のそれとそっくりだ、というのだ。また仏教でなく、「神道」のほうに習合した、という説もある。中世神社の「御手洗石」がそれだ、ともいうが・・・・・・。
 いずれにしても、イスラムもまた、ついに中国、満州方面まできて、日本には「正式に」入らなかったのである。(本文より)

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