2011年8月11日木曜日

唐文化のなかのアラブ


 ユーラシア大陸の東西交流史のなかで、この唐の最盛期ほどおもしろい時代はない。──異民族王朝隋をたおしたあと、唐は、隋の前の五胡時代の不安をとりのぞこうとするように、北と西、とくに西の方へむかって、最大の力をそそぐ。東北は満州地区から、今のモンゴル共和国あたりにいた、トルコ系の東突蕨(とつけつ)をうち、さらにその西の鉄勒(てつろく)をうち、チベットをおさえ、現在のソ連領中央アジア諸地域にまで勢力をのばし、ついにアラル海──このちかくに、現在ソ連の「ケープ・ケネディ」ともいうべきバイコヌール宇宙基地がある──の西にまだおよんだ。南は北ベトナム、北部タイあたりまでが、勢力範囲になる。──こうして、ヒマラヤ、パミールで、当時のインドのヴァルダーナ朝と、アラル海の南でサラセン帝国と境界を接する。ササン朝ペルシアが消滅したあと、中国がアラブと直接顔をつきあわせ、にらみあったのである。
 この当時のアラブのことを、唐では「大食」とよんだ。(本文より)

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