2011年8月12日金曜日

「さか吊り幽霊」

   小学校の四、五年ごろ、九州から関西へ越してきた近所の中学生に、「沖縄では、上から下に、さかさに出る幽霊がある」という話をきいたことがある。──夏の夕方、行水も食事もすんで、夕涼みの縁台に子供たちが集まり、年上の少年たちの話す、さまざまな階段をきいて、小さな子供たちが、こわがってきゃあきゃあいっていたときだった。
 幽霊は、柳の下にふうっと現れたり、墓地の地下からどろどろと湧いて出たりするものだ、と思っていたそのころの私にとって、たいへん印象的な話だった。──実をいうと、この原稿を書く時点まで、沖縄にのこる「さか吊り幽霊」の伝説について、地もとにあたる機会も、ついにくわしくしらべる機会もなかった。したがって、伝説そのものについては、たんにそれがある、ということぐらいしかしらないことをおことわりしておきたい。
(中略)
  どうして突然、沖縄の「さか吊り幽霊」などをもちだしたかというと、実は、「お盆」の気どった呼び方、「盂蘭盆(うらぼん)」という言葉を思い出したからである。(本文より)

盂蘭盆会の起源
 日本古来の伝統的な「お盆行事」と「盂蘭盆会(うらぼんえ)」とは、同じものだと思っている人がほとんどであろう。──だが、厳密にいうと、このふたつは別のものである。日本古来の、正月に匹敵する重要な祖霊来臨の夏行事と、仏教の祭である「盂蘭盆会」は、現在、たしかに密接に習合していて、一般に、お正月は「神事」、お盆は「仏事」となんのうたがいがもなく考えている人が多い。お盆には、お寺から坊さんに来てもらって、祖先の位牌(いはい)をかざる仏壇の前で、お経をあげてもらう。一方、お正月は、神棚に若水(わかみず)、お鏡餅をあげ、四方拝や神社への「初詣で」を行なう。現代人は前者は死んだ人びとの霊──「仏さま」のための供養の期間であり、後者はふだん「お社(やしろ)」に祭られている、日本古来の「神さま」を祭る期間だ、と単純に割りきっているようだが、日本古来の伝統風習では、「盆と正月」は、本来同じ「祖霊来臨」の時期であり、その祭り、行事の性格は、夏、冬の「季節性」の差はあっても、きわめて酷使したところがあり、私などはむしろ、お盆を「夏正月」と呼ぶべきではないか、と思っているくらいである。
(中略)
 「盂蘭盆会」は、七世紀ごろ日本に渡来した、インド起源の輸入宗教である仏教の夏の祭りで、これが日本ではじめて行なわれたときも、記録にはっきりのこっている。すなわち奈良時代の斉明(さいめい)女帝の三年、紀元六五七年に飛鳥寺近辺で行われたのがはじめであり、以後、しだいに仏教に帰依する宮廷貴族のあいだにひろまった。(本文より)

祖霊を祭る
 では、仏教の祭りである「盂蘭盆会」は、どんなまつりか、というと、これも祖霊の祭にはちがいない。ただし、この祖霊は、祭ってくれる子孫のいない霊であり、祭りもべつに夏に固定していたわけではないらしい。これが夏に固定したのは、仏教が中国に入って、中国固有宗教の道教の陰暦七月一五日「中元」の祭りと習合してかららしい。──「中元」は日本にも入ってきて、「お歳暮」の夏季版として贈答とかさなり、デパートの「中元大売出し」はいまなお盛況だが、これはもともと、祖先祭りとも、贈答とも関係のない、善悪判定と人を許す道教の神「地官」の祭りだった。正月十五日の「天官」の祭りである「上元」、十月十五日の「水官」の祭りである「下官」とともに、「三元のまつり」といわれる。この道教の「夏の祭り」が、魏、晋から、六朝へかけて、仏教の「盂蘭盆会」と習合して、「祖霊祭」となった。(本文より)

樹上葬の習慣
 使者を葬るのは、すでに氷河時代のクロマニヨン人の段階、あるいはそれ以前のネアンデルタール人のころから「埋葬」や「洞窟葬」が行なわれていた痕跡がのこっているように、埋めたり、人目につかない所に棄(す)てたりするのがたいへん古いやり方だと考えている。火葬にしたり、乾燥してミイラにしたりするのは、古代でもかなり高度な文明ができてからのこととされている。──埋葬と火葬は、現代まで生きのびて、世界の葬制の二大主流をなしているが樹上葬はもうほとんどのこっていない。しかし、十九世紀から二十世紀の前半にかけては、主として、当時の未開地域にかなり広範囲にのこっていた、北アメリカ原住民、オセアニア、インドネシア、東南アジアの森林山岳民、さらにカムチャダール族、タタール族、フィン族、モンゴル族など北アジアの狩猟・遊牧民社会にはひじょうに広くおこなわれていた、という。また、朝鮮半島でも、天然痘(てんねんとう)その他の流行病で死んだ死体を、菰(こも)でくるんで樹に掛ける習慣が、かなり最近まで、各所にあったという。
 ところで、この樹上葬が、かつて日本でもあったのではないか、という話がある。(本文より)

習俗としてのさか吊り
 奈良時代の称徳女帝(七六四-七七〇)のころ、紀伊国の牟婁郡熊野村に永却禅師という人がいた。そこへひとりの禅師がたずねてきて、一年ほどいたが、間もなく麻繩二十尋、水瓶ひとつを持って熊野山中に入った。二年後、熊野の人たちが熊野川上流で船材を伐(と)っていると、山中に法華(ほけ)経を誦(しょう)す声がきこえた。さがしたが声の主は見つからず、声のみが朗々と樹林にこだまする。半年たって船をひきにのぼるとまだきこえている。永劫禅師に告げて山中をたずねると、先に山中に入った禅師が、繩で両足くくって断崖から身を投げ、さかさに吊りさがったまま白骨になっていた。しかし、法華経の功徳(くどく)で、舌だけがくさらず、まだ法華経を唱えつづけていたという。──この話は、先に紹介した「人掛けの松」の伝承ののこる紀伊山中の話である。
 日本の古い文化は、ユーラシアからおしよせてくる新しい文化に押されると、東北へ、あるいは深い山中に後退した。東北地方や、山岳部には、栽培植物にいたるまで、きわめて古い、「歴史以前」のものがのこっているように思える。
 そして、『日本霊異記』のこの説話は、一方において「樹上葬」を、また地方において、ポリネシア島嶼部に今なおのこる奇習──成人が勇気を示すため。何十メートルもの高さの台から足首を藤蔓(ふじづる)でくくってとびおりる、という行事を連想させる。紀伊山中の大峰(おおみね)山で、先達に連れられて初登りする少年たちが、帯をつかまれて、千仭(せんじん)の谷底へつき出される、という一種の「成人式」──これはまだやっているかもしれない──も思い出す。インド山岳地方の、行者たちの苦行にも、崖からさか吊りに身を投じる、という方法があるそうだ。
 現在でも、お盆の季節になれば、帰省列車が満員になり、日本民族の大移動の観を呈すが、その背景にはこうした古い文化のからみあいがかくされているようである。(本文より)

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