「文明」も、もともとは、どこかの富と情報をもとにした「神聖なる権威」を広域にみとめさせ、あるいは地域が積極的に「参加」することにより、そのなかに「異質文化の共存と分業的補完=交易」を、衝突を避けるように調整しながら「世界人としての文明人」をつくりだしてゆこうとするものだった。──商業都市の宗教だったイスラムも、元来はひじょうにあっさりと明快なもので、アラーを唯一神とみとめ、マホメットを予言者とみとめ、コーランをあがめ、礼拝をふくむいくつかの戒律をまもれば「同胞」とみなした。別の信仰を固執してもべつに抹殺はせず、「高級な話や取り引き」の仲間には入れない、というだけのことだったのである。
こういう「文明」も、近世から近代にかけて、各地域において「特異性」を持ち、「排他性」を持ったものになってゆく。──産業革命以後の交通・輸送・通信・生産の大発展により、「諸大陸・諸文明」が、「地球」というステージのうえで、お互いに顔をつきあわせるようになったのは、じつにここ二世紀、否半世紀ほどのことである。
「地球文明」というものを構想するのは、こういった「前・地球時代(プレ・グローバル・エイジ)」における「文化と文明」の、長い、奇妙な、そしてじつにしばしば悲惨な衝突と破壊、殺し合いをくりかえしてきた──それでいながらまだ完全に開明されていない──歴史をよく見きわめ、その陥りやすい「恐怖からくる熱狂」「狂信」「誤解からくる非惨」の罠(わな)を、骨の髄までよくたたきこんだうえでのことでなければなるまい。
「人類社会」は、たやすく「統合」できるものではないであろう。「諸文明間の致命的闘争」の可能性もまだのこされており、性急な「使命感」にかられた統合の強制は、かえって「地域地域の魂=文化」の圧殺や、流血の抵抗をよぶであろう。にもかかわらず、「異質文化・異質文明」が、相互に大衝突や殺し合いをせずに「共存」しうるような、「調整」の可能性を増大させるためには、過去の大文明のすべてをこえた、新しい「地球文明」を構想せざるをえないだろう。
さしあたって、希望は、諸文化、諸文明間の「致命的衝突」を回避するよう調整の努力をつづけつつ、諸文化・諸文明が、相互にその「異質性」を認識し、そうすることによって、じょじょに──ヒステリカルな拒絶反応や、アイデンティティ・クライシスや、嫉妬に陥ることのないように──お互いと自己を「理解」するような、おだやかな文化交流を持続させ、さらに新しい世代へむけて、まったく新しい「地球文明人」をつくりだすことを目ざすよりしかたがないと思うのである。(本文より)