モンゴル軍の破壊と殺戮は、各地にかなりのこっているが、十三世紀当時のユーラシア大陸の東西で、すくなくとも千万人は殺しているだろう。──シルク・ロード沿いの都市は、はるか「未知の敵地」の奥深く侵入してゆく途上で、「後方の叛乱」が不安なために「住民みな殺し」にあった例が多い。ニシャプールは、現在はアフガニスタン北方にある都市であるが、ここでは三十万の住民は赤ん坊から老人まで、犬、猫、小鳥までことごとく首を切られてピラミッドにつみあげられたといわれている。──占領が終わって、「移動」するとき、また「退却」するときに、「後方撹乱(かくらん)」のおそれがないように、なんの罪もない住民を大量虐殺する例は、現在でもよくあることである。
「作戦上」そういった虐殺をやるのならまだわかるが、まさに「文化的大虐殺」が行なわれたり、行なわれようとしたりする例が、やはりこの時期に起こった。──モンゴルの軍隊が、西方をうち、ついで中国本土におそいかかって、当時北方から侵入して華北をおさえていた女真族の金をほろぼしたとき、ジンギス汗の庶子であるジュチは、華北にいる数千万人の漢民族農民を「みな殺し」にして、中原をからっぽにし、自分たちで盛大に羊を飼おう、と何度も提案した。──ジュチは、「農業」などというものは、「ちゃんとした人間のやることではない」と考えていたのであり、したがって農民をみな殺しにすることになんの抵抗も感じていなかった。
幸いにして、この計画は、カラキタイ(後遼ともいう)の宰相で、ジンギス汗の知恵袋のひとりだった耶律楚材(やりつそざい)の必死の諫言(かんげん)で実行にうつされなかったが、遊牧民が、「農業」を憎み、きらい、軽蔑したことは、歴史的に根深いものがある。先ほどあげたサラセンでも、北アフリカへなだれこんだとき、ベドウィンはローマ時代の都市、耕地、灌漑施設を徹底的に破壊し、羊とラクダを飼う土地にかえた。その後、気候の乾燥化が進んだせいもあるが、現在でもこの地帯は、ローマ時代ほどの農業生産もあげられない。
また、ジンギス汗の時代より一世紀のちに、サマルカンドに興った、自称ジンギス汗の子孫のチムールは、イラン方面の農業地帯を徹底的に破壊した。──都市を見おろす崖の上に1万騎をならべて、「一騎が二つずつ首をとってこい」と厳命した話も有名だが、都市、居住区、果樹園、農場、灌漑施設の破壊ぶりはものすごく、十五世紀にそのあとを見たアラブの歴史家をして、「どんなに戦争で都市が破壊されても、十年たてば旧状に復するものだが、この破壊ぶりは、たとえ最後の審判の日が来ても、昔の十分の一の人口にも回復していないだろう」と嘆ぜしめるほどだった。──堤防破壊によって、乾燥地帯では耕地が砂漠にかえり、多雨地帯では昔の低湿地にかえることを、農民はもっとも恐れた。だが、広大な「天地の間」に水草を追って自由に移動する遊牧民は、逆に、農民のように辛抱づよく労働力を投下して耕地化し、「自分たちの土地」として囲いこみ、遊牧家畜の侵入をこばむやり方憎んだ。
──乾燥した麦作地帯から、乾燥したステップ地帯へと連続的につらなる中央アジア地域や華北地域で、両者の「生産形態」の相違からくる「文化衝突」は何度も起こったろう。この地域では、気候の変化や「新技術」の出現が、両者の「境界線」を何度も移動させたろう。北方の寒冷化が進むと、遊牧圏の南限は南下せざるをえない。一方、温暖化が進むと、農業境界線は北上する。また、農業地帯では灌漑施設が進み、農具・品種の改良が進んだり、「農業生活文化」が辺境に浸透したり、「植民」が行なわれたりして、ボーダー・ラインが、昔の「遊牧民テリトリイ」の奥深く進出すると、ここに衝突が起こる。柵をつくって遊牧民を防ぎ、相手はそれをぶちこわして侵入し──そのくりかえしの果てに、「柵」が巨大化したものが、「万里の長城」であろう。
あるばあいには、「衝突」が、一方による他方の「征服」、あるいは「吸収」が起こり、ひとつの「複合文化」がかえって「大帝国」を生みだすこともある。遊牧民は、前に述べたように、「生活者即戦士」であるから、騎馬戦闘時代に入ると、たびたび「農業文明」をうち負かし、「征服王朝」としてそのうえにのかったが、農業文明圏の「ゆたかさ」「知恵と技術の蓄積」に影響され、「支配階級」としての少数支配はつづけながら、「生活様式」については遊牧民のそれをはられ、征服したものにかえって「吸収」されてしまうばあいが多い。
──中国を征服したモンゴル族の首長、フビライ汗が、他の西方の汗たちに、猛烈に非難されたのは、彼が「中国皇帝化」し、「尚武」の遊牧民魂、モンゴル魂を忘れて堕落した、と思われたからだった。また、のち、明をうちたおして漢民族のうえに二百数十年君臨した、満州の騎馬遊牧民女真族の清は、末期には「清朝貴族」は依然支配階級であったものの、完全に「中国化」していた。モンゴル侵寇時代に一翼を担ったトルコ族も、オスマン・トルコ大帝国をたててから、まったく昔のペルシア帝国のような官僚・神権国家に変貌していった。(本文より)