2011年11月4日金曜日

文化の相互浸透

 ところで、ユーラシア大陸において、もっとも頻繁(ひんぱん)に、かつはげしく、ステップ遊牧民の浸透・征服を蒙(こうむ)ったのは、ステップ地域と地理的につながっている地中海型農業地帯や、インド北部、中国北部であった。──こういう地域では、歴史的に何千年も昔から、遊牧系と農業系が衝突をくりかえしているので、「対立」だけでなく、「相互浸透」もはなはだしかった。
 もっとも「相互浸透」といっても、まず戦闘において遊牧系が勝ち、「征服者」として農業社会のうえに重層的にのっかり、ついで農業社会の豊かな蓄積と、主として「都市文明」」に「融合」するうちに脆弱(ぜいじゃく)化し、けっきょく農業・都市文明に吸収されてゆく、というケースがほとんどである。そして、この農業文明と「融合」する時期に、農業文明の持っている神権政治的官僚制を通じて、これを軍事的にも社会組織的にもひじょうに「強く」して「大帝国」を築きあげることがある。
 アッシチア、ヒッタイト、古代ペルシア、インドのマガダ朝(シャカを生んだ一族であるがスキタイ系といわれる)、マウリア朝、中国における最初の帝国殷も王朝は遊牧系のにおいが強いし、西北部陝西に起こって戦国の世を統一した秦も、遊牧系征服王朝の性格がつよい。古代ギリシア人も北方から南下してきたアーリア系であるし、ローマも同様だった。中国ではほかにトルコ系王朝といわれる隋、ツングース系の女真族の金、モンゴル系の元、同じく女真族の清があるし、西アジアではオスマン・トルコがそうである。
 (ここでちょっと不用意に農業「文明」という言葉を使ったが、農業「文化」と遊牧「文化」は「異質」ではあるが、それぞれある時期まで対等の強さを持つぐらいに高度に発展したものとして、いったい遊牧「文化、社会」は農業「文明」に匹敵するほど独自な遊牧「文明」をつくり上げたかどうか、という問題がある。──現在私たちは、農業地帯に蓄積記録された「歴史」や「遺跡」によって「文明」を考えているので、移動性が高いためにほとんど「遺跡」をのこさない遊牧社会については、その面からは判定しようがないが、ひとつには「文明」というものの定義によるところもあろう。今のところ、遊牧社会は、農業「文明」のうえにのって、「征服者・支配者」になることはあっても、それ自身の中心部に、独自の「文明」が築かれたことはないようにみえる。しかし、「文明」というものの定義、尺度のとり方によっては、たとえば、モンゴルの各汗国のうち、あるものは、農業「文明圏」の外にあって、しかも農業文明を支配した、独自の遊牧「文明」といえるかもしれない)
 農業「文化」と遊牧「文化」というものはある時期までにそれぞれ高度に発達した「異質」なものだ、といった。──そして「文化」というのは、いったん形成されると、なかなか根強いもので、征服、被征服から融合・吸収の段階になっても、おのおのの「ハード・コア」は、容易なことでは消滅しない。それは、もっとも強く、「価値観・人間観・人生観・社会観・世界観」といったものにのこってゆく。(本文より)

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