これはまったくの私説であって、類推にすぎないのだが、私なりにそれぞれの「ハード・コア」が、どういう条件で形成されてゆくか考えてみたい。
まず農業社会から考えてみよう。──農業社会の成員の資格は、一戸一戸の主が「土地管理者」である、ということである。むろん、「開墾」「播種(はしゅ)/田植」「収穫」のときなどが、「協同作業」がないではないし、共同体のための「共同管理」の土地がないではないが、基本的には家族ごとに、個々の「たつきの道」を持つのが一般的であろう。
ところで、世界でもっとも古く成立したといわれる「根栽農業文化圏」──東南アジアで発生したタロイモ、ヤムイモ、バナナ、サトウキビなどを主とする、農業文化──では湿熱地帯であるうえ、上記の作物の「備蓄」がむずかしい。したがって、救荒備蓄もあまりできないばかりでなく、大豊作になっても、食べきれなければくさらせるばかりである。
しかし、地中海型ムギ作文化圏では、乾燥しているうえ、イネ科穀物は備蓄がきく、凶作や変事にそなえて、ふだんから各戸がいくらかをさいて、「共同倉庫」に備蓄することも可能なら、「大豊作」の余剰ストックもできるし、何よりも、「技術革新」によって、「直接耕作者」でないが、大量の人員を養ったり、また他地域の「物産」と交換することもできるのだ。
五千年前、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス下流のシュメールで起こったといわれる「世界最古の文明」というものは、まさにこういった「農業革命」、「農業技術革新」によって点火されたのであろう。現在のこるシュメールの粘土文書によると、五千年前のシュメールの農業生産力は、播種量の八十倍という高いものであることがわかっている。この数字を、当時から四千年のちの、九世紀アルプス以北ヨーロッパの二倍という数字にくらべてみれば、どんなに高いものかわらるであろう。十二、三世紀になっても、ヨーロッパのムギ作は、やっと三倍から四倍というところだった。しかもシュメールには、当時すでに、牛に牽かせる条播機(じょうはき)──スキでたがやしながら同時に種を蒔(ま)き覆土する農具──があった。ヨーロッパにおける条播機の出現は十八世紀である。
どうして、五千年前に突如として、こんな「技術革新」が起こったのか?外部的要因としては、ちょうど五千年前あたりが、気候史でいう「最適気候期(クリマティック・オプティマム)」──世界的に気候が温暖で多雨であった時期──にあたった、ということもあろう。技術的には、家畜の使用、農業機械の改良、灌漑土木の発達、土地管理システム、また組織労働システムの発達、といったさまざまなことが考えられる。それまでいろんな地域で別個に発生し、準備されていた技術が、突然ここで集約化しはじめたのかもしれない。──しかし、ここで見おとしてはならないのは、シュメールが、世界最古の「文字・記録」の大量使用をはじめた、ということである。粘土板にきざまれて大量にのこっているシュメール楔形文字(せっけいもんじ)の記録の大部分は経済文書である。が、重要なことは、農業技術の教科書をかねた「農事暦」がのこっていることである。「文字」があり「暦」があるということは、それを操る「専門家」がいたと考えてほぼまちがいない。
「記録専門家」の存在が、ややおくれて発生するエジプト文明では、「書記」という職業ではっきりしてくる。りっぱな「書記像」がいくつものこっており、「書記になれ」という勧誘文書までのこっている。──一方、「暦」のほうは、バビロンではあの高度に発達した「天体暦」になり、エジプトでは、ナイル増水をもとに、世界最初の「太陽暦」が生まれるのでが、王の年代記とともに、もっとも「神聖な記録」に属した。──その神聖さには、王・神官のもたらす「奇蹟」よる広域支配、神権政治の秘密がかくされていると思われる。
チグリス・ユウフラテス下流、ナイル下流、インダス河下流、といったオリエントにおいて農業革命にもとづく「文明」の発生した地域は、大河下流ではあったが、けっして直接的に雨の多い地域ではなかった。
文明は、上流山岳地帯、多雨地帯の降水によって起こる「洪水」を、灌漑水路によって管理することによってはじまる。エジプト古王朝の発生したカイロ付近では、ほとんど雨が降らないかわりに定期増水がある。メソポタミア下流部では洪水はときおりかなり大荒れする。しかし、いずれにしても、洪水前にこれを予知して、灌漑水路を上手に管理すれば、大量の水は、肥沃な土を耕地に客土(きゃくど)してくれて、肥料なしにおどろくほどの多収穫が毎年持続する。──そして晴れわたった空のつづくなかで、「洪水の到来」を事前に予言し、広域の人びとに、いっせいに水路整備の準備にとりかからせる「サイン」が暦であり、これによって「広域例年多収穫」の奇蹟が起こるのである。(本文より)