2011年11月12日土曜日

皆兵社会

 この基本システムを、遊牧民のそれとくらべてみると、そのちがいは歴然である。──遊牧社会では、移動性が高いためか、まずこういった「超自然的神権者」が生まれない。「天」は認めるが、その下で人間はすべて基本的に平等である。部族のリーダーは、平等の権利をもつ成員の「選挙」によってきめられ、その選出基準は「実力」「能力」である。移動範囲は広範だが、広域情報を集中管理する「固定的センター」は生みださず──したがって「都市」を生みださず──「技術革新」は、たちまち集団のなかにひろがり、だれがその「権威」を独占するわけでもない。多階層社会は形成せず、基本的には「人間」と「家畜」の二層しかない。したがって「人間」の資格のないものは「家畜」と見なされる。
 軍事になると、そのちがいはいっそうあざやかになる。前に述べたように、家畜の「天敵」は肉食獣や人間であるため、自己の「財産防衛」には、つねに自分の「武装」で闘わねばならない。馬に乗れば、もうそのまま「騎士」である。一方では、家畜「集団」をドライヴし、管理する技術が身についている。徒歩の捕虜軍団をたちまち「歩兵」にしたて、「督戦」する技術を持っていたのだ。
 遊牧民は、アフリカのサバンナを徒歩で牛をかりたてるマサイやダトウーガでもそうだが、社会成員は、すべて潜在的な「戦士」なのだ。──近代兵制の出現する以前から、「国民皆兵」の社会なのである。「他者の権威や強制力によってではなく、自分の力で自分を──自分の財産、家畜、名誉をふくめて──守れないもの、守るために闘わないものは人間ではない」というのが基本的モラルである。
 これほど相互に異質な世界が、顔をあわせたら、お互いが相手をどういうふうにみるか、まことに興味のあるところではないだろうか?(本文より)

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