前章に述べたように、農業社会と遊牧社会とでは、その「生活のために管理する“生物”」が、植物と動物=高等哺乳類というようにたいへん性質のちがうものであるため、それぞれの社会が発展してゆく過程で、生活様式・技術や、「自然・世界観」、あるいは「生きてゆくうえでの心がまえ」や「人間観」にまで大きなちがいが生じてきた。
遊牧社会というものが、どういうもので、どうやって発生してきて、どういう発展をとげたか、ということは、現国立民族博物館館長の梅棹忠夫先生の『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫24)に、じつにわかりやすく、しかもあますところなく述べられているから、ぜひご一読をお勧めする。──梅棹先生は、戦前からアジア遊牧民の社会と生活の研究をはじめれれ、旧大陸系の牧畜社会の類型をあますことなく探求されたが、この著作には、遊牧社会に関する、重要で大胆な説が三つあげられている。それを要約すると、
一、「遊牧」という生活形態は、従来欧米で唱えられていたように、農業社会がまず成立し、そのなかにとりこまれていた「家畜飼養」が分離していったものではなく、むしろ、ユーラシア・乾燥地帯において、農業とは別個独立に発生していった可能性がつよいこと
二、農業が、現在考えられているように東南アジア根菜農業や、アジア照葉樹林型農業と、それぞれの地域で、基層において、別個の植物を栽培化し、独立に発生したとすれば、遊牧社会でも、北方アジア・ツンドラ地帯のトナカイ遊牧、中央アジア・ステップ地帯のヒツジ・ウマ遊牧、西南アジア砂漠地帯のヤギ・ラクダ遊牧、北アフリカ・サバンナ地帯のウシ遊牧の四類型に、それぞれ起源が別々である可能性があること。
──そして、このうちとりわけ、独自・独立的に高度な発展をとげたのは、アジア・ステップ地帯のヒツジ・ウマ遊牧社会であること
三、遊牧社会・文化は、農業社会とちがって、移動性が高いため、これまで「都市的蓄積」を行なわなかったが、欧米でこれまで考えられてきたように、農業社会より「おくれた」「野蛮な」社会・文化なのではなく、農業社会と「異質な」、しかしある時期まで農業社会と対立しうるほど、高度に発展したものであったこと
ということになる。人類史をみてゆくと、歴史時代に入ってから、ユーラシア大陸では中央アジアのステップ型大草原から、たびたび「遊牧民族」が西アジアの地中海型農業世界である「肥沃な三日月地帯」や、インド、中国北部へ侵入し、農業地帯を蹂躪(じゅうりん)して「征服」を行なっている。──前二千年紀から、アーリア人や、ヒッタイト、イラン系で集団騎馬戦法を発明したといわれるスキタイ、あるいは中国の匈奴、フン、セルジュク・トルコ、モンゴル、遊牧化したツングース族など、すべて「歴史を書きかえる」ほどの大変動を、農業文明地帯にひき起こした。
これも梅棹氏の指摘であるが、現在もなお「精悍(せいかん)」の印象を与えている、西南アジアの砂漠遊牧民であるベドウィン族は、オアシス都市・農耕民と「相補的」な関係になり、砂漠から興って農業地帯へ大征服を試みたということはなかった。七世紀にマホメットによって起こされた壮大なイスラムの「聖戦(ジハード)」は、彼らを先頭部隊にしたが、イスラムの中心はオアシス都市商業民と農耕民だったのである。──砂漠地帯のラクダ・ヤギ遊牧は、植生がステップ地帯にくらべて悪く、したがって生産力が貧しくて、とても「独自に」農業社会に対して対立するほどの力がなかったらしい。(本文より)