日本のように、まわりの自然のなかで四季それぞれに花が咲き、自然そのものが、「カレンダー」であるような土地では、中国から輸入された「暦」というものは一種ハイカラな「改良」のようにうけとられたが、「暦」が「神権政治」にとって、どんなに重要なものであったかということは、当の中国をみれば一目瞭然である。──中国の「天子」は、文字どおり「天の子」であり、「天」から自然の支配をまかされている存在である。天体・季節の運行も、早(かん)ばつも、降雨もすべて天子の責任であり、もし長期の日照りでもあれば、天子は「天壇」にこもって、天に濛々(もうもう)と煙をあげ、降雨を祈らねばならない。もし、雨が降らなければ、「天命革(あらたま)る」というので「革命」になる。そして、年間の農作業の目安になる「暦」の発行は、「授時──人民に時を授ける」ということで、天子の重大な任務だった。そして暦が狂うと──とくに日・月蝕がくると──天子の権威が失墜するので、暦は太古からたびたび改正された。太古から秦まで六回改正されたとつたえられ、この習慣ははるか後代、清までつづいた。
古代農業文明における支配者は、天と語って「正確な農事情報の提供」を行なって、広域多収穫という神秘な「奇蹟」を行なう「神権王」であり、その王の神秘を助けるのが「神官」であり、それを記録するのが「官吏=書記」であった(「王」は、ただ強くかしこいだけでなく、何か常人とちがった「奇蹟」──たとえば病人をさわっただけでなおすとか──ができなければならない、という「思想」ははるか後代の封建ヨーロッパまでつづく。ゲルマンの「王」たちは、「法王」と奇蹟をきそいあったのである)。そしてその神秘をとり行なうところが「神殿」であり、関係者の住むところが神殿「都市」だった。
通常、「文明」の発生の条件には、「文字=記録」の使用と、「官僚=神官・僧侶」といった、それを専門的にあつかって、みずからは直接生産しないフルタイム・スペシャリストの発生と、恒久的な「都市」の出現があげられる。
このうち、「都市」というものについて、今でも若干の混乱がある。──「都市」を古代ギリシアの「ポリス」から近代都市までの系列で考え、都市(ブール)にはかならず「都市住民(ブルジョワ)」がいるものときめこんでしらべてゆくと、シュメールにしろ、エジプトにしろ、あきらかに大文明であるのに、「都市居住遺構」が出てこないばあいがある。新大陸でも、マヤやアステカの巨大遺構は、多勢の住民が長年にわたって住んだらしいあとが見つからない。しかし、これらの「文明」には、ほとんど例外なく、「神殿遺構」はある(例外とされるのは、整備された移住跡があるのに、神殿らしいものが見あたらないインダス文明のモヘンジョ・ダロやハラッパだが、ここにも「集団祭祀場」らしいものはある)。そして、最近では、「都市文明」とは、都市内居住区よりも「神殿」つまり、広域情報の中心的施設の在否を重視すべきではないか、という意見が強まりつつある。
こうして、農業「文明」には、ピラミッド型の基本的なヒエラルキイが発生する。神権王、神とのコミュニケーションを補佐する神官、世俗向けの問題を処理する法官(法典もまた、大もとは「神」からさずけられたものである)、記録官、土地所有者(大小、自営、委託経営にかかわらず)、非土地所有者、異邦人、というシステムである。王の傍に王族貴族が位置する。──ここで問題は「軍人」である。
実をいうと、最古の農業都市文明である古代シュメールにおいて、「軍人」は本質的な要素ではなかった、という説があるのである。──対外的な危機があったときだけ、臨時に適任の有力者が──王・貴族のばあいが多かったろう──司令官に集会で任命される。
では、「軍隊組織」は? これも、平時の灌漑土木を行なう集団労働組織が──むろん一般民の「夫役」のかたりで行なわれていたろうが──そのまま「軍団」となったという説もある。
軍人としてのフルタイム・スペシャリストは、おそらく「傭兵(ようへい)」だったろう。王のボディー・ガード、神殿宮殿の護衛、財宝、穀物倉庫の番などに、土地を持たない細民子弟や、ときには貧寒な山岳地帯から出てきた連中がなったであろう(山岳民の出かせぎのかなり重要な部分が「傭兵」だったことは、現代でもスイスの傭兵、ベトナムのモイ族、インドのグルカ兵などをみればわかる)。(本文より)