2011年10月15日土曜日

防衛意識の不在

 こういう「歴史」──異民族、外国との戦争が起こったばあい、日本のほとんどが「後方」でしかなかった、ということと、首都が建設以来じつに二百五十年ものあいだ、「国内戦」の舞台になったことがなく、「自然災害」だけが君臨してきた、という歴史が、日本の社会のなかに、「戦争」というものについてどういうイメージをつくり上げてきたか、ということは、はなはだ興味のあるところである。
 国内戦のばあいを別にして、対外戦争のばあいを考えてみても、日本は兵力をくり出して戦争をやっている時期よりも、国内に閉じこもっている時期のほうがはるかに長く、外で負けたら「本土」にひきあげて、じっとしていればよかった。そして島にひきあげさえすれば、まわりをかなり難所の多い、季節によって荒々しい海にかこまれているため、この「自然防壁」のおかげで、「防衛負担」がきわめてすくなくてすんだ、という歴史的事実がある。
 中国本土へ行って、遼東の地を区切る山海関(さんかいかん)からはじまって、北京北方を西行し、張家口(ちょうかこう)から延々オルドスの大平原を貫いて、はるか西方甘粛(かんしゅく)の地にまでいたる「万里の長城」を見れば、この地の「防衛負担」が歴史的に、日本とくらべてなみたいていなものでないことは一目瞭然であろう。さればこそ、二千数百年前、秦の始皇帝は、「中原」を安定させ、天下を統一するために、厖大な夫役(ふえき)を動員し、華北山林を丸坊主にしても、この長城を築かざるをえなかったのである。
 日本のばあいは、この「対外防衛負担」というものを、国民的に、ほとんど意識せずにすんできた、という、まことに幸運な歴史がある。──対外戦争のばあい、「出撃」ばかり考えて、ほとんど「領土防衛」を考えずにすんだ、ということは、これだけの歴史のある「国家」としては、得意なことといわねばなるまい。
 そもそも「首都」がそうだが、中国の唐代、奈良時代になって、はじめて長安の条理を模した「固定型首都」平城京ができたが、その後、長岡京にうつっても、平安京になっても、あの中国の首都の、高く、堅固な「城壁」はついに生まれなかった。「羅城(らじょう)」といって、土塀はめぐらしていたらしいが、国土が本格的戦場になったばあい、その当時にしてすでに土塀などなんの役にもたたなかったことは、大陸の「都市」をみれば一目瞭然である。その土塀も、こわれてしまえば、修理もせずにほったらかす。とても本気で「防衛」を考えていたとは思えない。 
 戦国期以後の武将の「城」は、たしかに防衛機能を持っていたが、それもかなりの期間、非常用の山城であって、平城になり、「城郭都市」を形成して、それが実際に有効だった時期はごく短く、例もすくない。それでも、次々と戦場になった畿内(きない)の堺や、大和の環濠(かんごう)集落は、「防衛機能」を「社会生活機能」にちゃんとおりこんでいた。──大坂城は、城下町と、その防衛はなるほどよく考えてあった。しかし、冬の陣のあと、「外濠(そとぼり)をうめる」という条件を大坂側が呑(の)んだ、という話をすると、ヨーロッパの友人は眼をまるくして、どうしても、そんな「ばかげた和解条件」を呑んだ、という理由が理解できないようだった。(本文より)

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