ところで、この「遊牧生活」というものが成立するうえには、ひじょうに重要な「技術革新」を何段階か必要とする。
──ひとつはむろん、野生動物を「家畜動物」に品種改良し、「固定」してゆくことである。人類が、いつごろから「家畜種」をつくりだしたかははっきりしない。現在でも、ユーラシア寒帯地域のツングースやラップといった人たちの馴致(じゅんち)遊牧においては、家畜種と野生種が同じ餌場に集まり、野生種をとらえて馴致、交配させることがときおり行なわれているらしいが、いずれにせよ、農業時代のはじまるころには、野生種から分離改良された、かなりりっぱな「畜種動物群」が出現していた、とみられる。
もうひとつ、「遊牧」に必要な技術革新は──これが「品種改良」にも大きな役割をはたした、ともいわれるが──「去勢」技術である。これも起源はいつごろかよくわからない。しかし、いかに「おとなしい」草原有蹄(ゆうてい)類であっても、やはり遊牧の対象になるのは、大型哺乳類である。雌雄同数いてこれがひとつの群れをつくっているとき、この群れを自由にあつかおうとしても、「外敵」に対する防衛や、群れの「統率」をひきうけるリーダー、サブ・リーダー──これは大型の成年オスがなるが──の反撃力は大きいし、まして交配期になってオスたちが発情興奮しはじめると、これはきわめて危険であって、手がつきられない。あれだけ人に馴れている奈良の鹿でも、交配期には、よくオスが人を傷つけることがある。
これに対して、もし生まれたばかりの子供のオスのなかから、将来のタネオスをいくらかのこし、あとを去勢してしまえば、その世代のオスたちが成獣になっても、問題はなくなる。──去勢されたオスは、おとなしい。しかもこの去勢オスは、乳は出さないし、繁殖の役に立たないから、ある程度大きくなれば殺して「肉」を食べてもかまわない。去勢されたオスは、体形が女型化し、脂も多く肉もやわらかい。
一方、何頭かのタネオスは、数が少ないので統御しやすいし、ところで去勢オスの大部分は、仔羊のときころされるのだが、そのうち何頭かは、小さいときから、人間が徹底的にかわいがると同時に、「反抗」に対しては徹底的にきびしく笞(むち)でしつける。──将来、この去勢オスがもっとも人間のいうことをよくきき自然に群れのリーダーになってゆくのだし、これを飼い主が「主人」としてしっかり統御できるように把握しておけば、将来群れの統御はきわめて楽だからである。また凡百のオスを殺し、一部は去勢して優秀なタネオスだけを選抜し、交配させてゆけば、品種の改良が急に進む。
こうして「去勢」によって、品種改良とともに、家畜の群れの大量統御、大量長距離移動が可能になり、はじめて「遊牧生活」が成立してくる。──こんにち、「遊牧」の対象になっている家畜は、ヒツジ、ウシ、トナカイ、タクダ、それに乗用としてのウマ、遊牧助手としてのイヌなどであるが、このうちでもヒツジなどは、もっとも遊牧に適した動物であると同時に、飼われだしたのもきわめて古く、一万年以上前からともいわれ、現在では、その野生種は、地上に存在しないし、「原種」らしきものもわからなくなってしまっているほどである。(本文より)